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[コメント] 世界の果ての通学路(2012/仏)

よく撮り、また、よく繋ぎすぎている。云い換えれば、コンテを練りすぎている。むろんそれ自体は讃えられてしかるべきはずだが、問題はその作為の痕があらわであることだ。撮影準備の万端な整えがありありと透けて見え、映画性と同義であるところの予測不能性の芽があらかじめ摘み取られてしまっている。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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それが最も顕著であるのは、ケニアの兄妹が危険地帯を駆け抜けるシーンだろう。岩場の陰に一時的に身を隠すという突発的であるはずの彼らのアクションを、どうしてカメラは待ち構えることができたのか。云うまでもなく、それが前もって周到に準備されていたからだ。計算通りに実現されたコンテのために、却ってここではシーンに備わるべきスリルが安心に置き換えられてしまっている。(一方で、たとえば、現実感・即興性を捏造しようと躍起になったフィクション映画がこれ見よがしにハンディ・カメラを激しく揺らすことにも私たちは辟易としています。したがって、当然すぎることではありますが、映画のプロダクションにおいて何らかの「方法」そのものに正否があることはむしろ稀であり、良し悪しは主としてその「方法」を用いる仕方・時機・程度によって測られるでしょう)

もちろん、この映画の制作者たちが整えた「万端の準備」とやらはもっぱら咎め立てられるべき性質のものではない。やはり、出演する四組の子供たちの選定そのものが映画の屋台骨を支えている。地域=地理性=風景のバランス(東アフリカ、北アフリカ、南アメリカ、南アジア)や、子供たちの関係性のバランス(兄妹が二組、女友達三人グループが一組、三兄弟が一組)はむろんのこと、たとえば、ケニアのジャクソン兄妹がひたすら自らの脚で通学路を行くのに対し、アルゼンチンのカルロス兄妹は馬を操り、インドのサミュエル兄弟は素朴な設えの車椅子で悪路を頑張る。さらに、モロッコのザヒラたちはちゃっかりヒッチハイクして通学時間の大幅な短縮に成功してさえみせるだろう。

そして、彼らにとってこれが日常でしかないということこそが、この企画の最も優れた点だ。世界中の多くの観客は自らの通学体験と引き較べて彼らに感嘆や同情を寄せるかもしれないが、彼らは彼らの通学を当然のものとして引き受けており、映画はその当然ぶりを撮り収めている。驚異が驚異として振舞われている光景の感動は概して大きくない。驚異がさも当たり前のことであるかのごとく画面を生きるとき、観客は安全地帯を奪われて「映画」との対峙を強いられる。バスター・キートンが私にそれを示した。

(評価:★3)

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