[コメント] さざなみ(2015/英)
女という不変ではいられない者の成長のありかたは、いつまでも無邪気な子供にとどまる男と根本的に同居し得るものなのか。若い頃から女というものの激しさを秘めた冷徹さを体現してきたランプリングをして、初めてこの問いの解答は具体性を帯び、生き生きとすらしているメタファーに精製せしめられたのが理解できる。
**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。
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女の業とは不変のものというけれど、ランプリングはこの夫婦の若い頃を想像するならば、決してこの映画に描かれた姿ではあり得ないだろう。ナチ帽にサスペンダー姿の若き彼女からは納得できはしても決して想像はできなかった、この『さざなみ』の老ランプリングを眺めれば尚更だ。
彼女が最終的に振り捨ててしまうコートネイは、頭ではジャック・ケルアックを嫌悪しキェルケゴールを信奉するインテリ男ではあるものの、彼の素性は子供のままだ。彼は決してランプリングを捨てる気などはないままに、若き日の恋人への妄執をあらわにして、しかもそこに合理性など持ってこずに新しいおもちゃに心を移す。それが女には判らない。コートネイが元彼女を妊娠させていたことは女には一大事だが、男にとってはリニューアルされたラジコンの機能に過ぎない。新機能に飽きたら夫は妻のもとに戻ってくるだろう。それが女には許せない。あるいは妻は終章で夫を断種してしまうかとも思われたが、映画を最後まで眺めるまでもなくそれは誤解だった。それは理解できる相手への愛情があるからこそできることだ。男を理解しようとすることを辞めた女は、愛することも止めるだろう。
女として感情が干上がったようなイメージのなかで、なおもたぎる感情を垣間見せる21世紀のランプリングにとっては、これは代表作と呼べるものに相違ない。
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