[コメント] 田園交響樂(1938/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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冒頭は驚きで、「国民精神総動員」の日の丸大写しに続いて聖書の引用(ヨハネ伝9−41及びロマ書7−9)。いったいどんな国民精神なのだろうと疑わずにいられない(原作のジイドはフランス人)。原節子が例の『新しき土』のドイツ訪問から帰って最初の作品の由。
最初、原節子はものが満足に喋れず、知的障碍が疑われているが、中盤からは大いに喋り出す。愛が心を溶かしたみたいな展開なんだが、これ、ちょっと本当かなあと疑させられる。風呂に入れて引っかかれたおひでという女中さんが面白いのだが、残念ながら途中退場してしまった。序盤目立った娘も後半余りいなくなる。
目が見えるようになるのがいったい幸せなのかどうなのか、という兄弟の確執。そんなもん見えるほうが幸せに決まっていると思うのだが高田は変に拘る。ここにマタイ伝を照射するような説得力があれば映画は傑作だっただろうが、咀嚼する力が製作者にはなかったと見える。高田は東京の弟に原を託して北海道へ戻ってしまう。この弟の佐山亮は納得いかないような奇怪な造形なのだが、ジイド原作もこんなだったような記憶がある。確執のあった妻の清川玉枝が原の東京永住を見込んですっかり落ち着いているのは、ここまで何の対立だったのか判らなくなり不満。 そして手術は成功、目が見えるようになった原。終盤、怒涛の北海道帰省、高田の元へ駆けつける件は何が何だか判らない。たぶん判っているのは山本薩夫だけではないかと思われるのだが、この畳み込むような手法は後年の全盛期を予告する迫力は感じられる。冒頭の大吹雪も中盤の散歩も、雪景色はよく撮れている。
ヨハネ伝9章はこんな件。先天的な盲人をイエスが語る。「本人も両親も罪を犯したのではない、ただ神のみわざが彼の上に現れるためである」この身障者観は惹きつけられるものがある。イエスは彼の眼を見えるようにする。彼はユダヤ人たちに批難される。これを聞いてイエスは弟子に云う。「私がこの世に来たのは裁くためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。肝心の41は「イエスは彼らに云われた。もし貴方が盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし今貴方が「見える」と云い張るところに貴方がたの罪がある」。これはもしかしたら、ブニュエル『銀河』の結論と同じなのかも知れない。
しかしこのラストは面白い。いろんな具合に応用できそうだ。先生の顔だけ見えない原、とか。製作主任は関川秀雄。
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