[コメント] ディス/コネクト(2012/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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要するに、映画はこの物語を「距離」の問題として考察している。ここでインターネット技術の利用を通じて「接続」された人々の間に生じるいくつかの犯罪や悲劇は、彼らの目的や関係性、また「接続」の形式などの諸点において巧みにヴァリエイションが取り揃えられているが、それらはすべて「『接続』された人々が互いの空間的距離を縮めてゆくこと」を物語としている点で共通する。
三組のエピソードのうち、たとえばフィッシング詐欺被害者のアレクサンダー・スカルスガルドとポーラ・パットン夫妻ははじめ容疑者のミカエル・ニクヴィストの所在も素性も知らず、観念的には無限大の距離が彼らに横たわっていると云える。探偵フランク・グリロの調査によって容疑者を特定した夫妻はニクヴィストの住居や勤務先を訪れ、一方的に「見る」ことができる距離を獲得する。そしてついにスカルスガルドは対決を決意する。すなわちニクヴィストに対して接触的暴力が可能な距離に自らを置く。
ソーシャル・ネットワーク・サーヴィスにおける成り済ましおよび苛めの被害者と加害者であるジョナ・ボボ/ジェイソン・ベイトマン父子とコリン・フォード/フランク・グリロ父子にしても、また取材者と取材対象(はじめ猥談ライブチャット・サイトの顧客と従業員)であるアンドレア・ライズボローとマックス・シエリオットにしても、仔細な内実は異なりながらも、ともに無限大の距離から関係が発端し、紆余曲折を経て接触的暴力が可能な距離に至ることをクライマクスに定める。
これらを並行して展開させるエディティングの手際の良し悪しについては評を差し控えておく。またそのクライマクスの暴力の瞬間が三組ともスローモーにされるあたりは思わず噴き出してしまったことを告白する。しかしながら、キャラクタ間の「距離」が物語を生産し、さらには物語そのものとなることを諒解している点が、現実的なもっともらしさを度外視してしまう「いいかげんさ」であり、取りも直さずそれこそが映画的な真摯さとも称される態度である。
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