[コメント] 標的の島 風(かじ)かたか(2017/日)
基地がないと攻撃されてしまうのか、基地などあるから攻撃されるのか。いっさい基地はいらないのか、最小限必要なのか、最大の準備をすべきなのか。米軍はいやだが自衛隊ならしかたないのか。俺の家の近くはいやだが、遠くのあいつらのところならかまわないのか。そもそも、あなたは他者を傷つけてでも国家に命を保障してほしいのか。そのとき血を流すのはどこのだれなのか。
たぶん議論の末は、国民と国家のどちらを優位に置くのかという、例の近代国家がかかえる永遠の課題にいきつくのだろう。結論は出ない。正解もない。何が正しいかではなく、より正しい手順を踏めるかどうかという智恵の問題だ。知恵を駆使するためには他者への理解と譲歩が前提となる。人は欲を糧に生きる生き物だから、それが途方もなく難しい。
石垣島のお盆。黄泉がえった先祖が老翁と老婆の姿で子孫の家を訪ねるという行事が描かれる。現世の子孫から、あの世にもこの島のような争いごとがあるのかと訊ねられた老婆は、天国に争いごとは一切ないと応える。ありきたりな模範解答のようでいてリアルな説得力があった。裏返せば、欲にまみれた現世に“平穏”など存在するわけがないということだ。
17歳の女子高校生から幼子の母親たち、戦争の記憶を宿す老女。地域の世話役や、セミプロ化した活動家、ついに市会議員になってしまう女性。そして、気ままな(と言ってしまうのは酷か)内地からやってくる賛同者。さまざまな人々の思いを網羅する三上智恵監督の目配りに問題の長期化をふまえた志の高さを感じました。問題が長引くことは反対、賛成両者にとって決して望ましいことではないのでしょうが、土本典昭の水俣や小川伸介、大津幸四郎、代島治彦と受け継がれた三里塚のように腰を据えたドキュメンタリーとなる予感がにじみます。
映画は、反対派の若い女性と若い機動隊員が対峙し、まさに三上監督が作品に込めた願を体現するようなラストカットで終わります。はたして隊員がみせた印象的な視線の動きに、三上監督が望むような意味(意思)があったかどうかは隊員本人にしかわかりません。たとえ作者の作為による編集の妙だとしても、この見事なラストに“訴えずにはいられない”クリエーターの願いの純度と矜持をみました。
ただし、作中に何ヶ所か危うく情緒過多に陥りそうな作為(編集)を感じたシーンもありました。もちろんプロパガンダの重要性を否定(むしろ歓迎)しませんが、思いの強さのあまり恣意性が過ぎると観る者の反感をかうこともありえます。それはとてももったいないことだと思います。観客はこの問題に関して意外と冷静です。・・・老婆心ながら。
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