[コメント] 今日(2012/仏)
この作家についてはウィキ記事で読んだことしか知らない。白人の母とセネガル移民の父の間に生まれたフランス生まれの混血児だということ(故に、あまり趣味がよいとはいえない譬え。失礼!)。アフリカ関係のドキュメンタリー番組にかかわったり、一瞥して、父の祖国に対す関心の強さを感じさせる経歴であること。バカンスの折など、一度ならず先祖の地を踏んでいることは、容易に想像できる。
仏語と並んで、ダカールのリンガ・フランカであるウォロフ語が本作の会話の主体である。米国人ラッパーを主役に抜擢したり、監督のルワンダ人の伴侶をその妻役で起用したり、国際的なキャストがすっかり現地の雰囲気に溶け込んでいることにまず驚かされる。つまり、日本人として、度々その地を訪れている私が感じるのと同じ生活の規律の弛みと人々のボルテージの高揚を、本質的に彼の地では異邦人であるずのアラン・ゴミスも、撮影中は念頭にあったのではと勘繰りたくなるような圧倒的な祝祭の気分を打ち立てることに成功しているのだ。
埃っぽい未舗装の路地に入れば、たちまち近所の物見高い群衆に囲まれ、町のどこへ行ってもラジオやカセットデッキから流れる音楽の調べが途絶えることがない。道端のボールを蹴るように年端のいかない子供達が先祖代々のリズムを感じ取って、生まれながらのダンサーの片鱗を閃かす。キャメラは、乾期のサヘルの大地のようにかさかさになった手や顔の肌理から力強い骨格の隆起まで愛撫するように動き回る至近ショットと、近すぎもせず遠すぎもせず、絶えず消失点へ向かって収斂してゆくかそこから分岐しようとする対象を追いかける長回しとが、宇宙開闢以来の天体の運動のように交互に繰り返される。これなんかも、まさしく、祖国の文化に特別な紐帯を感じながらも、最後の心理の障壁まで崩すことのできない移民2世の憧憬と苛立ちが綯い混ざった眼差しにほかならないのではなかろうか。
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