[コメント] スティルライフオブメモリーズ(2018/日)
女性性器からあらゆる“女性性”を消滅させる試み、の意味は理解できる。映画の最後に準備された数枚の「静物写真」(残念ながらボカシのかかった)はおそらく、それに成功しているように見えた。ただし、それは映画的アプローがもたらした成果ではないと思う。
この映画は周到に下世話な“男目線”を排除する。だが、代わりに用いられるメタファーはことごとく既視感のあるものばかりだ。誕生と死、四季の変遷に託された“止まった時間”と“移ろう時間”の描写にしても、何かを語っているようでいて形式的で古臭い。
生命を象徴したつもりなのか、車中の赤ん坊のエピソードには苦笑し、トンネル突入にいたってはもういいかげんにして欲しい。そういえば矢崎仁司監督は、前作の『無伴奏』でも同じようなイメージを「竹藪と、その奥の茶室」に投影していた。
「女性性器」を語るにあたって、男性視線を懸命に排除しようとすればするほど表現が固定化されていく。褒め言葉を探そうとしても“詩的”や“アート的”といった使い古された陳腐な言葉しか見つからないところに、テーマに迫る手法の革新性のなさが現れている。対象を遠巻きにさけて通っただけで、結局何も語っていないのと同じなのだ。
最後にボカシのかかった「静物写真}を配してしまた苦渋が、奇しくも直截的に“カタチ”を映像化することができない「映画」の限界と不自由さを浮き彫りにしているように思う。
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