[コメント] 神のゆらぎ(2014/カナダ)
どんな宗教も、本来は生きることの辛さを和らげる思想を共有するために興ってきたものだ。そのためにあるのが、悩み苦しむ者の痛みを癒す知恵を施してくれる理想の人格としての「神」だろう。だが、そんな慎ましやかな思想が営利と結びつくことで宗教は悉く変質し、「神」の教えを信じ教団の利益に貢献する者に奇跡をもたらしたり、死後永遠の喜びを与えてくれる超人的な存在として君臨する、「神」の代理人たる営利団体にたどり着く。
そんな欺瞞のなかにある思想と無縁でいるためには、独力で宗教の本質を見極めようとするしかなく、そうなった人は畢竟、宗教など必要でないほどに「強い人間」になってゆくというジレンマがある。笑えもしない冗談だ。でも、ここで「救ってくれない神など神ではない」と結論づけるのは、やはり性善説にもとづいたオプティミストだけだろう。現代において人が「神」を認めるのは、欲望を他者を顧みられる距離まで自制するためだ。無尽蔵の見返りを期待して行動するためにしか動けない大多数は否定できないけれども、それはこの世の常ではある。ただ欲望のために生きている俺に批判できる余地はもちろんない。
言えることがあるなら、この映画作家たちの開き直りぶりはやっぱり支持できない。「エホバの証人」の奴らは献血で救える命を認めない狂信者だから否定しよう。そんな上から目線ぶりは、当の教団側からの反発を待つまでもなく暴挙だろう。制作スタッフとしては、こんな安直な「正論」を無責任にまき散らす愚は避けてほしかった。人がすべて高邁な理想と責任感とともに生きられるならともかく、宗教を杖として必要とするか弱い人間がまだ多すぎることを思えば、それを簡単に否定すべきではない。
映画としては完成度は低くはないのだろう。それゆえ最低点は与えないが、誰しもに与えられるべき問題への解答、ではないので2点をつける。
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