[コメント] 幸福なラザロ(2018/伊=スイス=仏=独)
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終盤、アドリアーノ・タルディオロのラザロは銀行で、侯爵家に財産を返せと訴え、銀行客に殺され、荒野で雄叫びを交換した狼に回帰する。ここには銀行に対する一方的な悪意があり、ほとんど怨念を感じさせる(銀行屋が土地建物をどう盗んだのか何も描かれず、家財を盗んだのは引っ越し屋だと偽るふたりの盗賊なのだから、何か外している感もある)。作者はカソリックだろうし(スコセッシもカソリック)、カソリックには中世まで高利貸を禁じた歴史がある訳で、この反映があるのだろう。個人的には社会批評のための有効な視点だと思う(ブレヒトと同じだ)。しかし、その果てに小作農の封建制を見るのはいかがなものなんだろうと疑う。
村で神父は朴訥としているが町ではオルガンの音楽を失う。村の希少品であった白熱電球の温かな色合いは町での味気ないLED電球に対比される。人物たちの高齢化の哀れも町から村への指向を導き出す。こういう図式的な説話法は、比較自体に面白味もあるのだが、基本ヒステリックである。
侯爵家に財産を戻させて目論まれる再興はどんな社会か。「人間は獣と同じ。自由にすれば過酷な現実を知ることになるだけ。結局は苦しむ」とごちる侯爵夫人ニコレッタ・ブラスキの小作制への回帰ではもちろんないのだろう。しかし息子のルカ・キコヴァーニが後生大事に彼女の肖像画を掲げている処を見るとこの筋もありなのかも知れない。それなら映画は一気に如何わしくなるのだが。
まあ一般には息子のキコヴァーニへの回帰なのだろう。彼の母親への反逆という改革の継続が志されるのだろうか。しかし彼の心許ない子供の反逆を支援して、何になるのだろう。彼についてはひとつだけ、寝転んでいて傍に立ったラザロに「日陰になるからどいてくれ」という科白が明らかにディオゲネスを想起させたのだが、他に頼りになる言動もない。ラザロはただ侯爵の息子が懐かしいだけで、彼の何かを支持した形跡もない。
この、侯爵の息子という重要人物が頼りない、というのが本作の創意を支えているようではある。ここに頼れる英雄、例えば志半ばに小作農の改革を放棄せざるを得なかったトルストイ的な有為の人物、が位置するのでは、通俗に流れる、という判断があるのだろう。しかし、結果出てきたのは、古来云われる、客観的相関物を欠いた失敗作そのものと取れる。
それとも御主人様などはどうでもよく、要は自然の生活への回帰、ということなんだろうか。舐めるような空撮まで施される村の岩山からは(火山かどうか判らないが)『ストロンボリ』を想起すべきなのだろう。過酷な生活の先に信仰の生活を見ようとするスタンスは本作と共通するだろう。しかし、ホームレスの都市を捨てて山へ還れ、だけなら別に封建制へのアンヴィバレントなど示す必要など何もない。だからやはり、御主人様について何か云いたいのだろうが、それはただ曖昧なままに止まっている。
ラザロはいったい、どのラザロなのだろう。チラシには「蘇りのラザロ」だと記されてあり、確かに二度復活するのだが、本作にはどこにもイエスが登場しないのだからよく意味が判らない。もしかして、侯爵の息子がイエスだと云いたいのだろうか。しかしそれはトンデモ解釈と云うべきではなかろうか。一方「金持ちとラザロ」のラザロだと思えばよく意味は通るのだが、あらかじめ天に召されてアブラハムの横に座ることが確定しているラザロには、ドライヤー『奇跡』のような何かをこじ開けようとするサスペンスも何もない。
監督が本作のテーマについて語っている。「この映画が伝えるのは、この世で生きていく上で、誰のことも疎まず、人を信じ切ることの尊さです。生きていく方法は他にもあると思い込み、善なる生き方を拒み続けている私たちに、その事実を突きつけるのです」。こういう説教師みたいな云い方自体も抵抗を覚えるのだが、云っている内容も訳が判らない。私には上記のような禍々しい解釈しか思い浮かばないのである。ラザロの『テオレマ』とかホームレスたちの三輪自動車の『道』とかの引用満載も、オリジナルの素晴らしさを回想させるばかりで、本作のひ弱さを印象づけた。
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