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[コメント] アリゾナ・ドリーム(1992/仏)

ASCのカメラマンを雇ってきたかのような(我ながらいいかげんな喩えですが)決定的に非クストリッツァ的タッチの画面の上にクストリッツァ的な細部が綴られてゆく。ディナーからリリ・テイラーの自殺騒ぎに至るドタバタ。「飛行」への偏執。音源=楽器演奏者の顕在(テイラーはアコーデオンを弾くときだけ可愛らしい)。
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全映画人がそうであるように、やはりクストリッツァも「アメリカ映画」を無視して生きる=撮ることができない人間だ。正直なところ私にはこの映画が成功作だとは思えないのだが、それは彼が「アメリカ映画」に不用意に近づきすぎたためかもしれない(私の見立てでは、これ以降クストリッツァは『ウェディング・ベルを鳴らせ!』を撮るまでは意識的に「アメリカ映画」から距離を置いてきました。逆に云えば、『ウェディング・ベルを鳴らせ!』は「アメリカ映画」的だということです)。彼の「アメリカ映画」好きは、最も単純には自身の映画の中にアメリカ映画を登場させずにいられないところに顕れている。『黒猫・白猫』における『カサブランカ』『ストリート・オブ・ファイヤー』であるとか『ウェディング・ベルを鳴らせ!』における『タクシードライバー』であるとか(ヴィム・ヴェンダースと似たところがありますね。ヴェンダースのほうが趣味はよいですが)。この『アリゾナ・ドリーム』では、その種のクストリッツァの志向がほとんど狂気的と云ってもよいほどの勢いで表出している。云うまでもなく、それはヴィンセント・ギャロによる一人『レイジング・ブル』と『北北西に進路を取れ』再現のことである。(全篇がそうであるとも云えるが、特に)これらのシーンは出演者のナマの魅力をすくいあげることによってではなく、もっぱら俳優の技術とそれに対する演出によって成立している。いささか粗雑な云い方になるが、それは非クストリッツァ的であると同時にアメリカ映画的な方法論だろう。しかし、ともあれ私にとって最も重要なのは、結果としてそれらがどうしようもなく愛すべきシーンとして私に迫り、(たとえ成功作ではなかったとしても)『アリゾナ・ドリーム』が愛すべき映画であるということだ。

(評価:★4)

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