[コメント] バード(1988/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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主人公がシンガーならば、声と表情の演技がそのままで画になりやすいが(シンガーが俳優業を兼ねることが多いのもそのせいだ)、サックス奏者の凄さなんてものは、もっと工夫して丁寧に演出してくれないと、観客には伝わらない。イーストウッドは本物のチャーリー・パーカーの音楽が挿入されているだけで充分に満足なのかもしれないが。この映画に描かれたかぎりのバードは、人は良さげだが、何か偉大な芸術家には全く見えず、こんなおちゃらけとウジウジを繰り返すだけの男の生涯がどうなろうと知ったことではない。フォレスト・ウィティカーは鶴瓶とジャイアンを足して二で割ったような気のいい奴としか映じず、芸術家としての存在感がまるで見えてこない。彼の妻・チャン(ダイアン・ヴェノーラ)が医師から「命か音楽、どちらかを選ぶかです」と諭されて、彼にとって二つは同じなんですと言い返すシーンがあるが、まさにその「音楽」が描けていないせいで、人生の方も、本当の意味では見えてこないのだ。製作兼監督のイーストウッドにとって、チャーリー・パーカーの偉大さは、余りに自明すぎたのだろうか。ジャズ・ファンとイーストウッド・ファンの為の映画にしかなっていない。
まぁ、ジャズよりも遥かにロックの方を支持するという僕の個人的な嗜好のせいで、例えば終盤の、ロックンロールに取って代わられるジャズの悲惨に共鳴し得ないというのはあるのかも知れない(あんな、虎柄でギンギラのジャケット姿で踊りまくるロックが好きなわけではないけれど)。全篇に流れるジャズにもあまり馴染めず、バードが女の部屋でクラシックに耳を傾けるシーンでは、安堵感さえ覚えたくらい。だがやはり演出の問題はあるだろう。演奏家としてのバードは、単に演奏シーンが時々挿まれていたり、バードに対して尊敬の眼差しを向ける人間の姿があったと、要は客観的な情報として描かれているだけなのだ。映画そのものがバードのジャズに乗って昇華する瞬間は、遂に訪れないままだ。「チャーリー・パーカー」という固有名詞に依存し、映画そのものが自立的に音楽性を獲得しようとする気概さえ感じられない。
演出は秀逸なので、眠くはならないが、退屈にはなるし、ダルくもなる。麻薬による精神の荒廃の描写もぬるく、単に退廃的になっているだけにしか見えないのもまた、イーストウッドの生真面目さが裏目に出た感がある。こんなのは、「イーストウッドが、愛するジャズを題材に丁寧に撮った作品なのだから」などといった類いの贔屓目で見ないかぎり、素晴らしい演出力の無駄遣いと評するしかない。
冒頭に述べた、個々のシーンの演出力とは、例えば、リング上のボクサーに投げられたタオルのように飛んでいくシンバルを捉えたショットの反復であり、バードの自殺未遂シーンでの、落ちた壜から飛び散ったヨード液が血飛沫のように見えるカットが素早く挿入される仕方であり、倒れて動かないバードと、彼を見下ろして呆れ顔でいるチャンの冷静さとの断絶感であり、窓辺のチャンに向けて、友人たちのサックスの演奏に乗って登場する、白馬の上のバードであり、「アルビノ」の黒人として舞台に立たせたレッド(マイケル・ゼルニカー)とバードの、半ばかけ合い漫才のような陽気なやりとりであり、等々。特にバードの最期、テレビのコメディ番組を観ながら、笑い死にするようにして死んでいくシーン。テレビ画面を捉えたショットが徐々にコメディアンに寄っていき、笑い声に苦しげなものが混じっていくバードの様子と相俟って、ショットの強度が増す。その果てに、遂にバードが倒れ、斜めに傾いたショットで捉えられるテレビ。爛熟しきったバードの憂鬱が、ポトリと落ちる瞬間を的確に捕まえている。
ひとつ、優れたシークェンスを拾うとすれば、バードとレッドの関係性を描いた箇所だろう。ひたすらにバードを尊敬する存在として、言わば白紙状態で観客の前に登場するレッド。レッドは、天才でありながらも金はなく仕事もないバードを、ユダヤの結婚式での演奏の仕事に誘う。ここでバード一同は、ユダヤ式の帽子を被って演奏。その次の、演奏旅行のシーンでは逆に、レッドが黒人として、黒人たちの前で心地よさそうに歌う。遠慮がちな性格だったレッドは、ここで一皮剥けるわけだ。だが、その副作用なのか、医者を騙して薬を手に入れたレッドは、バードの前でそれを打とうとして、「バードみたいに演奏するにはヤクだってことか?」と、咎められる。そこで一旦はヤクを控えたレッドだが、結局、バードのような演奏者になれぬまま、ただヤク中という所だけはバードと同等になる。バードの天才を認め、尊敬してくれる数少ない存在が、それ故に、バード自身の精神の荒廃に呑み込まれてしまう悲惨。
だが、このシークェンスは実際には、特に心を打つものがない。というのも、レッドが認めたバードの天才というものが、まるで観客に伝わってこないからだ。結果、エモーショナルな軸として働くべきものを欠いたまま、ポツンポツンと断片的なシーンが置かれているだけという印象が強い。
そうした、エピソードの羅列という印象は、時間軸を交錯させる編集のせいで余計に際立つ。時間軸を交錯させるという点では、後の『父親たちの星条旗』もそうなのだが、そちらは「記念碑的光景として世間に喧伝された一瞬」としての一枚の写真という、確たる核が存在するのだ。
『バード』では、イーストウッドが本来得意にしている筈の、時間の蓄積によって深まりゆく人間関係というものが醸し出されてこない。勿論、友人たちとの関係にしても、妻との関係にしても、時間と共に大きく変化してもいくし、或る意味、深まりもしているのだが、そうした変化が、各時代ごとの差異というかたちでブツ切りにされ、時間の不可逆性、アナログ的な連続性が損なわれている。これはもう、致命的な損失だ。それでいて更に、この長尺。せめて二時間以内に収まるように切ってくれよ。バードは自殺未遂だったが、この映画自体は自殺行為を完遂してしまった。
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