[コメント] シン・エヴァンゲリオン劇場版(2021/日)
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1995年に放映され、以降の世界のアニメーションどころか日本の文化まで変えてしまった「新世紀エヴァンゲリオン」は既にTV版と旧劇場版の二つの完結を迎えている。だがそのどちらも視聴者側としては大変不満の残る出来であり、真のラストが待たれていた。
監督の庵野秀明もそれは同じだったのだろう。劇場版でリブートして、今度こそ本当に終わらせると宣言した。その言葉通り完全リブート版の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』(2007)と『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(2009)が作られた。TV版をベースとしつつ、随分わかりやすい物語として作られているのが特徴で、シンジの性格が大きく変わっていて、種々の交流を経てコミュニケーションもしっかり取れるようになり、何より『破』のラストはヒーローそのものの姿だった。
基本ストーリーは変わらなくてもここまで明るく出来るものだと感心できる出来で、一般的な評価も概ね好意的に捉えられていた。ただ、コアなファンには不評なところもあったようだ。
私自身で言わせてもらえれば、ほぼ世間の評判と同じで、このままの盛り上がりで続いてラストまで行ってほしいというのが正直な感想だった。理由は、早くエヴァの呪縛から逃げたかったという単純なものだが、テレビ放映当時に心持って行かれ、今もオタクを続けている人の多くは同じ思いを持っているのではなかろうか?
だが、その思いは、三年後に公開された続編の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(2012)で打ち砕かれた。一作目と二作目を好意的に描いた理由はここで徹底的に落とすためにあったのか?とさえ思うほどに完璧な落とし方だった。よくもまあここまでやったもんだ。変な意味で感心もしたが、同時に庵野秀明という監督はずっと変わらないのか?だとしたらもう見捨てるべきか?とまで考えもした。
それでも結論は次回作に持ち越そうと思っていたが、それでまさか9年も経過してしまった(その間に『シン・ゴジラ』という傑作を作ってしまったため、期待がムクムク起きてきたのも事実だ)。更に新型コロナウイルスもあって公開が延びてやきもきさせられた。
それでようやく公開。
ついに、本当に終わりが訪れた。しかも予想もしてなかったこれ以上無いすっきりした終わり方で。
私の感想は新版一作目二作目と同じ。三作目であそこまで落としておいて、よくここまですっきりと終わらせてくれたと感心した。まずはその点を評価したい。ネットではなんか普通の作品っぽくなったという評も散見されるが、逆に三部のあの終わり方からここまで持って行けただけ凄い。
これは実は最初に『Q』が思ったほど悪くなかったという事実が提示されたからだった。あれだけ酷いことをしたと思っていたが、実はあの作品、これまでの庵野監督作品の中で最も人が死んでない作品でもあるのだ。確かにオープニング時点で人類はほぼ絶滅しているのだが、劇中では実は誰一人死んでない。あの作品で起こったサードインパクト(『破』の際に起こったのは不完全なサードインパクトだったため、ゲンドウは本物のサードインパクトを起こそうとしたらしい)が起こる際は、地球上のほとんどの人は消えてしまっていたため、誰も死んでない。唯一肉体を破壊されたカヲルも、すぐさま月にある新しい肉体に精神が転移されているため実質的には死んでいないという事実も明らかにされた。だからシンジは自覚的な意味では誰も殺してない。恐らくこれは脚本の張った罠で、『Q』でとんでもなく非道なことを行ったという刷り込みを行った上で、それを否定した上でこの物語が始まる。更にこの第三村には『Q』で死んだ事が暗示されていたトウジとケンスケが逞しく生きていることが示される。
あれだけ暗い終わり方をした作品の後でこれか?
この時点でこの作品ですっきり終わらせようとしている匂いが感じられた。
その後の第三村での時間が面白い効果を生んでいる。『Q』では全く説明されなかった部分をここで丁寧に語りつつ、シンジの心を時間かけて再生していく。心を再生するのは孤独であるという構図は80年代のアニメでよく使われていた手法だが、最近のアニメではほとんど使われてないために逆に新鮮な感じになった。他にもこの時間を利用してミサトが何故ヴィレを作ったのか、シンジを甦らせたくなかった理由などもいくつかのキーワードなども語られる。
一見動きのない前半部でも飽きさせない工夫はふんだんに用いられているし、それにこれがあったからこそ、後半の展開が映える。
たった二人しか残っていないネルフと、巨大艦船を擁するヴィレ。この力関係が『Q』ではあまり示されなかったが、ここでその力関係がはっきりする。実はネルフの方が圧倒的な差があって、人類補完計画完遂まであとほんの僅かしかないという状況である。それをギリギリで回避しようとして必死にあがいているのがヴィレであることが分かる。パーツもないためにつぎはぎだらけのエヴァ二体をなんとか動かしてるような状況。
そんな絶望的な状況の中でシンジがここにいなければならなかった理由が出てくる。 この部分が実は結構重要。シンジの存在意義とは、ゲンドウにとってはサードインパクトを起こすトリガーでしかなかっため、今はもう用済み。ヴィレにとってはニアサーを起こして全人類を死に追いやった張本人。ミサトにとっては贖罪の対象だからいて欲しくない。いずれにせよ誰からも必要とされてない存在だった。
そんなシンジが自分の意思で現場に向かった。そして最後にエヴァ初号機に搭乗することで急展開を見せる。
これまで誰かの言うとおり動くだけで、一度だけ自分の意思で動いたらニアサーを起こしてしまったというシンジだからこそ、ここで自分の意思で戦いを選択したことに意味が出てくる。葛藤を経て、本物のヒーローになったのだ。
更にここに、今まで庵野監督作品には観られなかったモティーフが現れる。それは初めて父親を超える描写があったと言うことである。古今東西ヒーローとは比喩的に父を殺すことによってヒーローたり得るものとなっていた。だがこれまでの庵野作品では父親を描きつつ、敢えてそれを避ける形に持っていく事がほとんどだった。定式からずれるため、ヒーローっぽくならないのだが、それが安野作品の個性になっていたのだ。
そのスタイルを捨て、父親との直接対決、そして父の孤独を理解した上で超えていくという図式を初めて作った。
ここには驚かされた。
監督がそれを自覚的に行っていたのか、それとも空白期間の中で出した彼なりの一つの答えなのか、それは分からないが、少なくとも原点回帰という意味でシンジを本物のヒーローとして描いたことは大変大きな特徴と言える点だろう。
ここまですっきりした本物のヒーロー作品になるとは思ってなかったため、逆に肩透かしを食ったような気分にもなったのだが、でも四半世紀という時間を経てようやくあるべき場所に着地出来たという思いにもさせられる。
少なくとも私はこれを諸手を挙げて賛同する。
これを「こんなのエヴァじゃない」という人もいるだろう。そう言う人を否定するつもりもないが、少なくとも私にとっては、やっと肩の荷が下りた気がするのでこれで良い。本音を言えば「これ以上この作品に心のリソース取られたくない」。これでさっぱり思い切りが付いた。
ただ一点だけ解釈が分からないところがあるのはある。
ラストシーンなのだが、シンジがレイでもアスカでもなくマリを選んだのは良い。世界を再構築するのも分かる。だけど、なんでその結果が現代と同じ世界なのか。確か先に死んだ人間が帰らないという前提で再構築するようなことを言っていたが、この世界ってこれまで死んだ人間が構築してきた世界そのものなのではないか?そう思ってしまうと矛盾が生じてしまう。あのラストは蛇足か、あるいは第三村で新たな生き方を見せているシンジとマリが出てきほしかったかとは思える。更に細かく言うならば、『序』オープニングに出てきた綾波の伏線改修もして欲しかったところか。
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