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[コメント] 鶯(1938/日)

戦前のオイコラ警察を田舎の啓蒙組織として捉えたうえで、制度を超える人情を希求している。戦前昭和の地方をユーモラスに描いて、群像の全てが興味深かった。警察の板間に正座する藤間房子のお婆さんが心に残る。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







冒頭は駅舎、緩慢な駅員の対応に業を煮やして切符買わずにホームへ出たら特急が通過して、誘致に失敗したせいだと町会議員が自嘲する。「毎年、(町から)人が減る」「急行が停まれば町も発展するんでしょうがね」。交通と町の「発展」と政治家の仕事は昔も今も変わらないようだ。しかし駅舎は満員で、昨今の過疎にはまだ遠い。田舎に人が多い、という描写は『有りがたうさん』などとも共通する。

長万部行きの切符、次男の分だけ買えない労働者(か)は駅員に何度も頼み込んで、ついに一家三人で売り場(「出札口」とある)の下にしゃがみこんでしまい、の駅員は「根気負けした」と只で切符を渡す。とても印象的な件で、このアナーキーな人情に本作の主題は凝縮されている。

駅ではまた、先生と呼ばれる男が女郎買いと駅舎で喧嘩して生徒を守る。先生は契約書があると云い募る女郎買いを制して警察に連絡して、女郎買いは警察の前で蹲って動かなくなり、娘の親父は警察から「身売り防止の補助金」を貰っている。そんな制度があったのだ。身売りの金と比べると桁がひとつ少なかったが。この件で舞台は駅舎から警察へ移動する。

孫娘を探している藤間房子のお婆さん(バッパと呼ばれる)が深い印象を残す。椅子はもったいないと警察で床に正座する小さい背の曲がったお婆さん。昔はこういうお婆さんはいたものだ。警官には向かい合って煙草をふかして、オイコラ警察が具象化されている。休憩室で休ませてもらって粟の握り飯を広げて相手に勧め、曲馬団(!)に売った娘の話して案じてもらって、泊まってもいいのにと誘われるのだが罰が当たると辞して裏口から出てゆくとき、絶妙のタイミングで遠方を汽車が行き、彼女は警官の背中に向かって深々とお辞儀をする。彼女のお辞儀は警察署ではなく控室での応対についてだろう。

産婆の杉村春子は資格がないのに産前産後の投薬など医療行為をした疑いで収監されて取り調べを続けられている。汐見洋の医師が「医者と芸者は貧乏人は買わねえ」と愚痴っている。報酬は物納でお金など貰ったことがないと抵抗している。娘が産気づいて担ぎ込まれて(なぜ警察に担ぎ込まれるのだろう)杉村はあざやかに産婆の役割を果たす。娘の面倒を産婆がみることになり、映画は終わる。

廊下に逆さに伏せられた網籠に入った鶏がいい。卵を産み、逃げ出し、署内を飛び回り(この舞う白が映えるのがいい)、翌日出勤の署長に署長室にもいると指摘されるいいギャグがあった。物売りが来る。麦藁帽かぶった娘は窓からリンゴを売る。捕まえた鶯を売りに来て禁鳥だからと放されてしまう農婦の堤千佐子は「この辺りで金持っているのはここ(警察)だけ」と呟いている。代わりに酔っ払いで一晩収監された伊達信は門前で尺八を吹き、署長の勝見庸太郎は謝礼を包んでいる。

冒頭の駅員、藤間の話を聞いた警官と同様の、公務を越えた行いが反復された。杉村の件と併せて、警察なりの機構は、法を守るだけでは駄目で、それ以上の裁量が求められている、というニュアンスが感じられる。水戸黄門の待望と通じる封建庶民の願いとも取れるし、庶民のほうを向いてくれる政治の希求とも取れる。

その他、嫉妬からか娘の霧立の亭主を次々と離縁させる清川虹子の母、という断片はへんなコメディだった。昔はよくあった話なのだろうか。撮影は好調。青森近郊で到着した鈍行列車は青森行。「島田警察署」と看板が見えるが実名かどうか。東宝配給、東京発声製作のロゴは希少なのだろう。

(評価:★5)

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