[コメント] シッダールタ(1972/米)
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主人公シッダールタもまた宮殿を出て修行に入る。友人ゴーヴィンダと「すべては単調で退屈だ。苦行僧になりたい」という動機が語られる。彼は仏陀なのかと思わされるが違う。四門出遊もなく、彼等が赴くのは仏陀のような荒野ではなく都会、歌舞音曲の洪水のなかで「いままでで最高の恋人よ」とセックス三昧。瞑想では涅槃に行けないと悩み、博打で荒れたりしている。
シッダールタはヴァスディーヴァという老人に渡し守の弟子を志願する。老人は哲学者だ。「この河は同時にいろんな処で存在している」。年月が流れ、年取った昔の恋人を看取り、夕方から明け方まで、河の中洲で火葬する美しいショットがある。息子を引き取るが、彼は反抗して出てゆく。シッダールタは行くに任せる。自分の若い頃を思い出すのだろう。この息子が再登場せず、別れたままなのに含蓄がある。
老いた師も、まるで老いた象が自ら墓場へ向かうように筏で去る。「万物は再び巡り來る」、だからまた会えるとシッダールタに語りながら。この件は深いものがあった。この輪廻の肯定はバラモン教みたいなもので、輪廻からの解脱に向かう仏教のものではない。だから本作の輪廻の全肯定は救いではないだろう。ただ人間の運命が淡々と語られている。
そしてゴーヴィンダが再登場してシッダールタが作った舟に客として乗る。「道を求めている」と出家した青年のときと同じ科白を語るのが、これも人間の運命を感じさせて印象に残る。シッダールタがここで一緒に働こうと誘うところで映画は終わる。
仏陀の同時代人で、仏陀と時折接近遭遇するのだが仏陀は映されない。仏陀がお隠れになるという噂が町に広がる描写もある。撮影は冒頭から、河を鏡面のように撮ることに集中しており、これが見事に成功していて早朝から夜まで美しい画が続く。ヘッセの原作は遠い昔に読んだが忘れてしまった。再読してみたいと思った。全て英語で語られるのは時代の限界だろう。
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