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[コメント] 病院で死ぬということ(1993/日)

ディゾルブやフェードイン&アウトで紡がれる緩慢な時間感覚が、ベッドの上で動かずにいる生活の、静けさと停滞感を醸し出す。温い蒸留水のような、清潔さと微温感に包まれる画面。スクエアな優しさによって些か事態がぼやかされている気もしないでもない。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







監督の微温的な優しさを湛えたショットは、どこかオブラートが被せられたような恣意性を感じさせるもので、そうした、平凡な市井の人々に向ける彼の眼差しの温度を共有できない観客としては、その定点観測的ショットの持続によって、次第に、蟻の観察でもしているかのような、どんよりと醒めた視線で人間どもの生態を見つめている自分に気づかされてしまう。

とはいえ、一定の距離を保つ固定ショットで病室を捉える手法は、屋外のシーンではカメラが動的であることも相俟って、ベッドでジッとしていることしか出来ない患者の生活感を巧く捉えている。たかがトイレ程度の場所であろうと、独りで歩いて行けることが羨望される生活。辛うじて歩ける夫が、他の病院で動けずにいる妻を尋ねるシーン。「もう一度だけ」妻の許に。或いは、自宅に帰りたいと切望する患者たち。

病室の壁や床と同じ色をした白衣を着、患者から見れば病室という環境と半ば一体化した存在であり、自身もそれを自覚している医師(岸部一徳)。自分たち医療者は、患者の人生の過程に割り込んで、「その人の前に大きく立ちはだかってしまう」と語る彼は、患者の行く手に、文字通り「立ちはだかってしまう」一場面もある。病室から勢いよく出て行こうとする男性患者とぶつかり、彼はベッドへ戻る。その患者が、自らの病状について疑心暗鬼となって泣き叫ぶシーンで、励まそうとする医師は、患者の妻の手でベッドから遠ざけられたりもする。

この医師が、患者の体を預かる存在として、病気に対する患者の不安まで肩代わりしようとする態度は越権的に思えるのだが、かつてはインフォームド・コンセントという概念が希薄だったことを思い起こさせられる。この、微温的な優しさで知らぬうちに患者を幾分か自らの手中に収めてしまう在り方は、市川準の監督としての眼差しとの同質性を感じさせる面もある。

窓の光から始まるこの映画は、常に病室の窓をショットの内に配置し、「外」との隣接関係を保つ。患者たちもまた、窓からの光や風、雨、クワガタといったものを介して、「外」とのささやかな接触によって生を実感する。

六人部屋の病室に並べられたベッドの患者たちは、ショットのフレームから見切れている患者も含めて均等な存在としての扱いを受けているように見え、ショットの簡潔さによって却って、多層的な生を収めている。

病室の外から聞こえる、病院内の呼び出しアナウンスや、赤ん坊の声などもまた、「外」と病室の中間的な空間性をもたらしていて、病院で日々を送るということの実感を漂わせる。

(評価:★3)

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