[コメント] トレンケ・ラウケン(2022/アルゼンチン=独)
<パート1>
冒頭は屋外の男性2人の俯瞰ぎみのショット。早朝か?一人は携帯電話で会話している。これをパンしながらの長回しで見せる。2人は車に乗り、失踪した女性−ラウラを捜すのだと分かってくる。携帯の男性が、店先など路上の人々にラウラのことを尋ねる際、ラファエルと名乗り、女性の写真を見せながら、恋人だと云う。もう一人の男性−エセキエルは、車の中からそれを見る。彼は、フロントガラスとワイパーの間にメモがあるのを発見する。「さようなら、さようなら、じゃあね、じゃあね」。また、この車のトランクに残されたラウラが持っていた緑色のリュックは、ラファエルとエセキエル2人で発見する。
章題の挿入される映画(パート1は7章。パート2は5章)。本作は、フラッシュバックのような、ラウラが失踪するまでの過去のプロットと、現在時間軸のラウラ失踪後(捜索中)の場面が錯綜する。「エセキエル」という章題の挿話は、確か第2章で、トレンケ・ラウケンの町のラジオ局に彼がラウラを迎えに来る場面から始まる。ラウラは植物学者の卵であり、ラジオで小さなコーナーを任されている。放送中のラジオから、レディ・ゴディバの話をしているラウラの声が聞こえる。彼女のコーナーは「歴史を作った女性たち」。この後、ラウラはエセキエルの車に乗って、新種の植物を調査するため、郊外の牧草地へ行く。
パート1は、ラウラとエセキエルのプロットだ。2人で牧草地や農場の植物を調査するかたわら、図書館の本の中から見つけた古い手紙−1960年代の、女性教師−カルメン・スーナと、教え子の父親とのやりとり−に熱中し、謎を追いかけるプロットに突入する。パート1は、ほゞこのプロットで最後まで引っ張る構成と云っていいと思う。
パート1の全般的感想を書くと、まずはラウラを演じる主演女優ラウラ・パレーデスがとても魅力的だし、カルメン・スーナについての謎を解明していくプロセスも、古い書籍を扱う画面が面白い。ラウラとエセキエルと2人で盛り上がっていく様子、ついに2人がキスをする、といった描写には私も昂奮させられた。ただし、ニーノ・ロータやショパンのピアノ曲、スケーターズワルツといった既存曲の使い方を含めて、本作においても、どうもアザトイというか幼さ、未成熟さを感じさせる演出がそこかしこにあると感じた。
例えば、パート1の最後の章は「ラファエル」という章題で、彼がトレンケ・ラウケンの町に来て、ラウラの上司の女性ノルマを訪ねる場面だが、こゝもノルマという女性のキャラは面白いが、ちょっとノイジーなシーケンスだと思う。こういうバッサリ削った方がいいんじゃないかと感じさせる部分がある。
<パート2>
最初の章は、ラジオのニュース番組のメイン・パーソナリティーフリアナの章。こゝで、パート1序盤のレディ・ゴディバの部分に繋がる見せ方なんて、上手いと思う。しかし、パート1で描かれたエセキエルと古い手紙を探求するエピソードがほゞ放ったらかしになるのは、ちょっと唖然とする。これはこういう映画なのだ。
パート2は、農場で一人散策しているラウラに、唐突に話しかけて来た女性−エリサとのエピソードがメインプロットになる。ラウラが見たことがないと云う黄色い花の謎。エリサが関わっている湖の生物の謎。このエリサという女性も実に存在感があり、はっきりと描かれているワケではないが、ラウラはエリサに首ったけになったということだろう。ただし、エリサには、ロミーナという女傑のような豪放なパートナーがいる。
また、本パートは、途中でエセキエルが再登場し、ラウラがラジオ局のスタジオで吹き込んだテープを、パーソナリティのフリアナと2人で聞く、その(ラウラの)独白の主観的な映像化が繋がれる、という構成になるのだが、最終盤は、一転して、アスペクト比がビスタからシネマスコープに変化し、失踪中のラウラを客観的に映したシーケンスだ。これが徹底して突き放したような画面であり、この最終盤の画面造型には圧倒された。もっとも、私の好みで云うと、最初っからシネマスコープで撮れば良かったのにとも思う。
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