[コメント] お遊さま(1951/日)
ただし映画では、お遊が、お静と慎之助の考えを知った途端に、プロットがギアシフトするけれど、原作では、やゝずるずると描かれており、このあたりは、映画の方が分かりやすい構造と云える。また、原作には、東京の場面はない。
ただ、プロットの問題以上に、圧倒的に素晴らしいのは、溝口健二(と依田義賢や宮川一夫、水谷浩ら)が施した、映画ならではの視覚・聴覚効果の部分だ。それは、原作を読んだ方が、彼らの仕事の創造性を、納得することができると云っていいだろう。まばゆいばかりに美しい京都の山河の自然描写。或いは屋内のカメラの動き、例えば人物が部屋を出て屋外へ歩いていくのを、移動で追っていくことで、画面へ与える厳格な空気。そして、本作では、オフの音処理が強烈で耳に残って離れない。うぐいす、夜烏(よがらす−ゴイサギのことらしい)、船の汽笛(霧笛?多度津の港の場面)、そしてエピローグの赤子の泣き声。
終盤、京都の場面から、暗転して時間経過があり、東京の片田舎の風景へ時空が飛ぶ。このシーケンスで2回、画面奥(遠くの方)で、汽車が走るのだが、これが明らかな模型による造型だとしても、こゝまで(セット撮影の中でも)奥行と、縦構図を志向する、その徹底ぶりに感動する。
あと、田中絹代と乙羽信子のキャクターの対比も見どころで、最初の見合いのシーンでは、見合い相手の乙羽は殆どを顔を映さず、このシーケンス中、ずっと乙羽を目立たせない画面で徹底しており、付添いの田中ばかりが目立つ演出だ。田中は、いつもより、かなり妖艶に作っている。京都の街中での、暑気あたりのシーン。偶然通りかかった堀雄二が、知り合いの家へ連れ込む。こゝでは田中の着物の前をはだけさせる演出がある。また、縁側に座って逡巡する堀を、田中が起きて、ちらっと見る様子も艶めかしいことこの上ない。中盤以降、乙羽も若々しい美しさが弾ける笑顔も見せるのだが、本作の田中絹代の色香には太刀打ちできない。
#原作では、語り部(谷崎)が、慎之助の子供から話を聞く、という体裁。京都の山崎のあたりを歩いていると、渡し船があり、そこで話を聞く。
#映画で平井岐代子が演じた慎之助の叔母の役割は、原作では慎之助の妹が担っている。妹であれば、もう一人若手女優を見ることができたのに、と残念に思った。また、映画のラスト、堀雄二が歩く蘆のしげる湿地帯は、原作から考えると、かつての巨椋池(おぐらいけ)ということになる。
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