[コメント] 暗殺者のメロディー(1972/英=仏=伊)
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この、妙にロマンチックな邦題は、アラン・ドロン主演という事も相俟って、作品の実際の印象からかなり遠のいているように思える。原題は「The Assassination of Trotsky」、「トロツキーの暗殺」。この芸の無さそうな題名が実は曲者。「トロツキー」という固有名詞を二重化し、分身を生み、分裂を惹き起こすのが、この映画の特徴だ。
暗殺者は、防備を固めるトロツキーの家に出入りする為に、トロツキーの元で手伝いを始めた愛人の女を利用する。そして、トロツキーに論文を見てもらうという、弟子のような立場に自分を持っていく。最初に論文を渡す時、トロツキーに言われるまでコートを脱がなかったり、黒眼鏡の裏に表情を隠しつつも緊張した面持ちが隠し切れずにいたりと、トロツキーに接触した初めから、暗殺者の葛藤と緊張感は高い。そして、次第にトロツキーとの間に、父や師とのそれに似た関係が芽生えつつあるのが見て取れる。暗殺者が「こんな僧院のような場所に閉じこもっていず、山歩きでもされては」という言葉は、トロツキーが暗殺される当日、トロツキーが妻に、外を出歩きたいと言う台詞に反映される。暗殺者は、トロツキーとの間に確かに関係を築いていたのだ。
最後に捕まった暗殺者は、「お前は誰だ」「動機は何だ」「誰の命令だ」と問われても沈黙している。最後に「お前は誰だ」と問われて「トロツキーの暗殺者」と答えるのは、彼にとって、自らが抹殺したトロツキーの名だけがアイデンティティの拠り所となってしまった事を暗示する。彼がこう答える直前、愛人の女が乗り込んできて「彼を殺して!」と叫び、彼の唯一の心の拠り所を失った事が、トロツキーへの一体化を促がしたと言えるだろう。
暗殺者が女に拒絶されるのに対し、トロツキーは、ずっと自分に付いてきてくれた妻に見守られて死んでいく。暗殺される当日も、まるでその事を予想していたかのように、妻に「偏屈な私によく付いてきてくれた」と感謝の言葉を述べていた。だが妻は「そろそろ散髪をしなければ」と、これから先の生活を前提とした言葉をトロツキーにかけていた。劇中ではこの妻が、トロツキーが閉じこもる部屋の窓を開いて、外の空気や景色に夫を触れさせる場面が反復される。この、自ら観念の囲いの中に閉じこもろうとする男の孤独を開く女がいたかどうか――或いは、そんな女に心を開いていたかどうか、が、暗殺者とトロツキーを分ける所だ。
この妻は、家に出入りする暗殺者に、「大戦中はどこに?」と訪ねる。彼が、パリに、と答えると、息子はそこで死んだ、ちょうど貴方と同い年くらいだった、と言う。つまり、暗殺者は、何かトロツキーの息子として家に招き入れられたかのような所があるのだ。実際、暗殺者がトロツキーを殺すという自体そのものが、ある面、トロツキーの「革命の為ならば暴力は肯定される」という論理の形象でもある。トロツキーの言葉が、自らの手で書かれるよりも、口述筆記や録音で記録される場面が多い事からは、彼が誰かに自分の言葉を伝えて残す立場の人間であるのが読み取れる。
暗殺者は、トロツキーに致命傷を負わせた後、家の者達に取り押さえられるが、その時「母親が人質なんだ!」と不様に叫ぶ。これは彼がまだ未熟な「息子」でしかない事をあからさまにしている。彼が「政治は恋敵です」と言っていたそのトロツキーに心酔していた愛人が、暗殺者を拒絶して初めて、彼は「トロツキーの暗殺者」として自立した存在になる。その顔が最後にセピア色の静止画となって映画の末尾を飾るが、その容姿は、映画冒頭の、若きトロツキーの写真に酷似しているのだ。
思えば、スペインの共産党のリーダーもまた、スターリンによく似た容貌をしていた。ここにも一人、既に分身がいた訳だ。この男もトロツキーの家を襲撃した。トロツキーは、共産党にとって内部の敵、獅子心中の虫だった。そしてそのトロツキー自身、内部の敵に裏切られて家を襲撃され、最後も内部の敵たるあの暗殺者に抹殺されたのだ。
だが、当のトロツキーは、安全の中で飼い殺しにされるくらいなら死ぬ方がいいと感じている姿が、何度も繰り返される。そんな中でも複雑な印象を残すのは、次の場面。録音されたトロツキーの言葉「革命の現場に関わった為に遠ざけられ、私は現状を分析し予測するのみだ」が聞こえる中、彼の部屋に入ってきた妻に「食事は?」と訊ね、妻が「もう食べたでしょう」と答えると「兎のだよ」と言うトロツキー。トロツキーは、檻の中の兎のように食事を与えられながら「分析し予測する」だけの存在なのだ。そこに被さる、剣を刺された闘牛の映像。血を吐いて逃げ惑う牛と、ゼイゼイと苦しげに息をするトロツキー。彼はただ囲いの中で生き長らえる事には不満を抱いているようだが、さりとて陰惨に殺されたがっているのかと言えば、そうとも言えないような雰囲気がある。
暗殺者から一撃を食らって、頭から血を流すトロツキーは、まるで屠殺される家畜のような叫び声を上げる。それを引き継ぐように、暗殺者もまた頭を血で汚して、同じような悲鳴を上げる。ここには、偉大な革命家が思想に殉じる、という荘厳な劇などは無く、獣同士の共食いのような陰惨さが漂う。ジョセフ・ロージーは、何もここで革命家トロツキーを貶めているわけではなく、この後の妻とのやりとりの中でトロツキーの矜持と人間性を描いてはいるのだが、そんな尊厳あるドラマの中にも、屠殺される獣と聞きまごうばかりの叫びが上がる瞬間があるのだという事、そこまでも冷徹に描いているのだ。
暗殺者が、舟の上で愛人に、トロツキーの家を訪ねるようにと言い、自分もそこについて行こうと言う場面で、「トロツキーは苦手な筈なのに、なぜ?」と問う愛人に口ごもりながら、共に川面を見つめた時、二人の後ろ姿に被さるように、川面に映るスターリンの写真が浮かび上がる。この描写には、暗殺シーンに次ぐ戦慄を覚えた。僕の中では『テオレマ』の涙の泉に匹敵する場面だ。他にも、トロツキーの来るべき死を悼むかのように鳴り響く鐘に飛び移り、止めようとする暗殺者など、一見すると起伏の乏しいこの映画には、鮮烈な場面が幾つか挟み込まれていて、油断が出来ない。
ただ、終盤の緊迫感に比して、序盤から中盤にかけては退屈であり、ドラマとしての全体の構成には、ややバランスが欠ける。最初の方で、後のドラマチックな展開を或る程度は予想させるような演出が成されていて然るべきだろうと感じた。
それにしても、屠殺と暗殺、暗殺者の理想像としての被暗殺者、飛び道具等に頼らぬ、被暗殺者の体の感触を手に感じるような、刃物による殺害、物を読んでいる被暗殺者の背後、至近距離から食らわす一撃、殺した被暗殺者と同一化する暗殺者――、こうした構図を、フランシス・F・コッポラは、この映画からパクっ・・・・・・いや、巧みに取り入れていた(笑)ように思えてならない。どの映画とは言わないでおくが…。
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