[コメント] こころの山脈(1966/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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産休教員の奮闘ものとして物語は既定路線なのだが、これをはみ出す処に妙味がある。まるで怒らない山岡久乃という配役がまず絶妙。怒り出すキャラの人にこのような耐える造形を持ってきているのが味で、頑張って耐えているなあと感じ入ってしまう。何で今日はそんなに優しいのだろう。
正規教員が組合含めて相当に依怙地に描かれているのがリアルだ。吉行和子はバス停で保護者の山岡賛美に背を向けるし(「正職は雑用が多いんですわ」)、職員室の山岡抜きの産休教員議論など生々しいものがある(ましていわんやPTA、という具合に校長室での保護者の山岡非難は映そうともしない)。確かに教員というのは独特の理屈を持っているものだ。
そんななか、本作は正職にできない児童個人との交流という主題に至る。最後に盗んだ給食費を山岡に渡す清君を、山岡は不問に付す。教務主任が望んだ解決の公表など一顧だにしない。ここは主張のある処で抵抗も覚えるが、それでもこれで良いと思われる。山岡は教員たちを信じでいないだろうし、確かに信じるに足らない。学校で山岡は清君と同じ立ち位置にいたのだった。「ボクと同じなんだ 職員室が嫌いなのさ」である。最後に慰労会に付き合うのはもう最後の我慢、大人だなあと感心してしまう。
あと、これは外延だが、保険外交員の奈良岡朋子が体現する共働きの母への、子供と一緒にいろという風当りは時代を感じさせる。鍵っ子という言葉は70年代のものだっただろうか。これをクリアするために山岡は働き詰めに見える。
本作製作の「本宮方式映画製作の会」の設立趣旨を、当時のチラシが映画館に貼り出されていて見たのだが、太陽族映画のエログロ路線に対抗して良心的映画を、とあった。そういう時代だったのだ。別に積極的に擁護までしようとは思わないが、日曜に教会へ行く訳でもない日本人、こういう中間団体が一掃された現代は頼りなげに見える(ただし、吉村監督はエログロ映画も撮っていると思うが。『美女と怪龍』とか)。
撮影美術は60年代後半邦画の好調がキープされており、終盤の山岡を包む雲が美しい。別に子役は下手ではない。
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