[コメント] 夢の涯てまでも(1991/日=豪=独=米=仏)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
映画『アルタード・ステーツ』にアイソレーションタンクっっちゅーもんが出てきます。
視覚・聴覚・嗅覚はもとより温感や重力感までも取り除いたとき、人の意識は何を捉えるか―といったようなもので、人が世界をそれと認識しているのは、実は他者(環境)との関係の中においてのみであることが良く分かります。
この作品中では集めてきた映像(感覚込み)をダイレクトに母親の脳に送り「疑似体験」させる設定になっていますが、実はこれが「疑似」であるかどうかの境界は非常に曖昧なものです。
父親ヘンリーの発明した装置が、A地点での「他者との関係において成立した現実」をB地点へと移動可能にするならば、世界は時間軸という共通の約束事を放棄し、個々の内面においてのみ成立します。
これは通常私たちが暮らしている「世界」の崩壊を意味します。つまり良くも悪くも、ヘンリーのしようとしていたことは人類を別の階層へシフトさせる可能性をはらんでいた―ということになります。
これが「滅亡の危機をはらんでいる世界」とオーバーラップして表現される設定は見事です。世界の滅亡は一見何の必要もないようですが、実はどうしても必要な設定だったと私は思います。滅亡しようとしていたのは「世界」ではなく「人類」だったのですから。
ドリームジャンキーとなっていく恋人達はバーチャルな生活に明け暮れる我々現代人へのアイロニーようですし、二人を救う「言葉」は、形なきものの中に真実を見いだそうとする(ヴェンダースらしい)天使のつぶやきのようです。
ラスト、新生なった誕生日を宇宙船の中で迎える主人公の視線は、さながらスターチャイルドのまなざしのようでした。
ね? 『2001年宇宙の旅』と一緒でしょ?
追記) 「夢の涯てまでも」の邦題は「〜する」(多分に「追いかける」)という意味でマズイと思いました。これは「〜来てしまった」(おそらくその後目覚める)という意味で「夢の涯てまで」にすりゃ良かったのにと…(^-^;)。
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