コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 42丁目のワーニャ(1994/米)

失意と倦怠の物語、『ワーニャ伯父さん』。それを活気ある現在進行形に転換する、ルイ・マル最後の力業。うち棄てられた劇場という、過去へ向かいつつある場所と、劇の準備という、不確定の未来へ向かう行為。対照的な時間の出逢いそのものがドラマだ。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







またこれは、エンドロールの為の映画とも言える。

『ワーニャ伯父さん』そのものは、最後にソーニャが「人生はもうすぐ終わる。そうして天国では神様が慰めてくれる。ようやく一息つけるのよ」という、ワーニャを慰め、自分をも慰めるような言葉で閉じられている。だがこの映画の中では更にその先に、この劇の通し稽古を終えて「ようやく一息」ついている役者達の寛いだ様子が映し出されている。つまり、天国で約束されていると言われていた休息が、この世の内で与えられているのだ。この場面によって、『ワーニャ伯父さん』の結末は、天国はこの世に、失意は仲間達との談笑に置き換えられる。さり気ない場面の挿入によって、元の劇の最終的なメッセージは、尊重されながら同時に反転されてもいるのだ。

加えて、エンドロールには、あの劇場での『ワーニャ伯父さん』の稽古が行なわれていた事自体は事実であると告げる。劇中劇が99%を占めたような特殊な形の劇映画かと思えたこの映画は、実は、半ばドキュメンタリーであったのだ。この世の外に忘れられたような劇場と、そこでの劇。それが映画という形で世に出た事は、『ワーニャ伯父さん』が執拗に描いていた世界の荒廃への、ささやかな抵抗のようでもある。

役者達の演技は飽く迄も真剣だが、ふと見ると、テーブルの上のコップには「I♥NY」。稽古の合間の短い休憩場面で流れるジャズ。また冒頭での、チェーホフを翻訳した父を持つ女性の登場。これらが示唆する、百年ほど前にロシアで書かれた劇が有する、時間的、地理的な隔たりを越える普遍性。

劇の最後では、周囲の人々に怠惰を感染させていた、と医師が言う夫婦が去り、また、自然を破壊して、何も生み出さない人類を糾弾していたこの医師も屋敷を去る。かの夫婦は、夫は学問や他人の資産に寄生して何も生み出さない老人であり、妻はそんな夫に自らの美貌と若さとを空しく捧げている。この、荒廃していく世界を象徴する劇の、輝かしい絶望とも言うべき諦念から、最大限の肯定性を引き出したのが、この映画なのだ。

そんな作品が遺作になったルイ・マルは、たぶん、映画の神に愛されていた。

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (0 人)投票はまだありません

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。