[コメント] ふるさと(1983/日)
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岐阜県徳山村、揖斐川の最上流、昭和36年に初めて電灯が入った、人口千六百人。弔いは野辺送りをして、遺体は木を寄せた祠で火葬していて斎場はない。昭和32年以来のダム建設計画はすでに決定済。道普請やら伐採やら(植林した樹木は全部切ってしまうのだろう)、そして最後の農作業する長門裕之と樫山文江。奥さん生きていると思い込む痴呆の加藤嘉。もっさい喋りが素晴らしい。夜中に対話。息子の妻の樫山文江を忘れて不義と怒るギャグ。施設に預けるのは「酷い気がする」と長門。
セン坊なる子供と釣り。やたら詳しく指導よろしく、それでボケが治る。自分がさせた亡妻の膳を仏壇に供えろと笑うギャグがいい。建てた離れの隠居部屋の天井が抜けたと母屋に帰る算段をする。すぐばれる嘘なのだが、加藤嘉はこれをいわば寓話で語っている。こうなると、前半のボケも意図的に見えてくる。その後もときどき理屈が通ることを云うのが素晴らしい。「長者ケ淵は遠いからな」。彼こそが荒ぶる自然の表象であるという含意がとてもいい。彼を軟禁したりして扱い損ねた人たちは、自然も同様に扱い損ねた。しかし、他にどうしろと云うのか。
いわゆる「声高に叫ぶ」瞬間は意外にもほぼ皆無。ただ冒頭、村道を土煙あげて爆走するトラック、身を石塀に寄せて避ける加藤嘉の怒りに満ちた表情に全てを込めている。あと、小学校では子供同士で、補償金の多寡とか公団への協力とかの議論をしている。事情を露骨に語るのは小学生だけなのだ。村人は家ごとに、まさに「櫛の歯が欠けるように」ダンプに家財積んで去って行く。鈴木ヒロミツは名古屋でバスの運転手をすると云うが、彼にはできそうにないように見えるのだった。
黒目の大きい加藤嘉。秘境で倒れて回想する若い頃。篠田三郎が絶妙に似ている。あの世で待って居るのが岡田奈々なら、死ぬのも待ちどおしかろう。村を離れずに往生した彼はとても幸福な人で、出て行く人たちこそ不幸なのだろう。小学校のお別れ会では「YMCA」で踊ったあと「ふるさと」が合唱される。この歌詞が似合う世界がまたひとつ終わった。峠で「見収めじゃ」と加藤の遺骨抱いて村を拝む樫山文江。みんな喰っていくためだ、こんな美しい村に住む贅沢は、人間には続けられなかった、という感慨が残る。
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