[コメント] 処女の泉(1960/スウェーデン)
映画を見終った人むけのレビューです。
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白夜の神秘で独特な世界だという印象と、最小限の登場人物で繰り広げられた物語が崇高ではなく、とても現実的で親近感が漂い印象を得た。思うに、宗教色が強い映画というのは、どこか受け入れがたいモノを持っていて、すんなり文化の違いを乗り越えきれない部分が出てしまいがちなのだけれど、この映画は絵本的な始まり方で、すんなり世界に入れた気がする。
最少人数で実に精密に宗教と人々の関係を、針葉樹林生い茂る山々と共に生きてきた人々の表情に独特のリズムを加えて表現していくのだが、洗練しすぎて没頭せざるを得ないので非常に集中して映画を鑑賞できたと思う。
《泉》
題名の「泉」に少し違和感があった。ラストの泉が湧くシーンに対して、いくらかの解釈が出来るが、「洗い流す」といった印象を受けた。なぜなら懺悔を、残された人々は現場で行うからだ。実際に水は湧き出てくるものの溜まらずに下へ流れていく。また、これは冬から春になるということを表現した四季の移り変わりであり、生命の誕生と別れを暗示しなければ作品が成立しないことを暗示しているかのように思う。
喜劇悲劇はあらかじめ用意されていたというのが根底に流れており、そのあらかじめ用意する行動が日常にあるというのを痛いほど分かっているからこそミサなどに献身的に通うのだが、反面、彼女を完全な温室内で育てることで悲劇の準備をさせていたという過保護の罪が重くのしかかる。彼女の冷やされた体に向かうシーン、両親の告白が出てくるあたりから悲劇の前触れが遠い昔から存在したのだと分かってくるのが不思議で、監督の力量の大きさを身に染みてわかる。
そして彼女の白い肌を覆っていた土を、母親は手で押しやり太陽を白い肌で照らす。そして彼女を持ち上げ悲しみを今一度感じていると、水が湧き出て水に敬意を表し感動し、出発を決意する。
父親は、父親が嘆き悲しむ姿は、神に対して許しを請う以外に新たな命の芽吹きに感謝しているようでもある。インゲリが抱えた命という伏線が残っているのを思い出すと、より一層それを強く思う。彼らは同じ轍を踏まないようにインゲリに対しての行動も変わっていくことだろう。
水が湧き出るシーンに『洗い流す=懺悔、清算』『コミュニティの感情が冬から春になったという四季の移り変わり=人間』『生命の誕生と別れの繰り返し=世界』を感じた。
《食事のテーブル》
彼女と家族らが一同に介した食事のシーンは凄く凄く練られているなとピンと見ていて思った。あれはレオナルドダビンチの描いた『最後の晩餐』ではないだろうか。(正確に言えば、動きがある斬新な構図のレオナルドダビンチの最後の晩餐ではないのだけれど、分かり易く)もう一度見てもらえれば一目瞭然なのだ、テーブルがありカメラが手前にあり、役者が向こう側にいるのだ。そして大体だが、レオナルドダビンチの最後の晩餐にいるユダの位置と母親の位置がほぼ同じなのだ。これは興味深くて、「重要ではないか?」と感じその後の展開をワクワクしながら見ると…案の定母親は、彼女と夫の関係に嫉妬していたと告白。うーん、素晴らしい作り込み!完璧としか言いようがない。
さらに牧童3人が丸々空いたテーブルの片側に座り食事をとるシーンは審判を受けている、そして、この後の展開の伏線をバリバリ作り込んでいると感じた。
さらにさらに、キリストの位置にいた父親がモルタルと石で出来た教会を建てることを誓った。イングマール・ベルイマン監督スゲーよ…。
2002/11/13
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