[コメント] イル・ポスティーノ(1995/仏=伊)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
本作の特徴として“美しさ”が語られることが多い。事実イタリアの風景の美しさと静かな音楽。耳をすます自然の音など、本作は本当に綺麗な作品だ。
だけど、それ以上に本作で扱っているテーマが素晴らしい。
本作に登場するネルーダは、分かりやすく自身が政治家でもあり、共産党員でもあったために追放されたと言うことになっているが(そもそも詩を書き始めたのも、貧しい人々の苦難を目にしたことからわき上がったとここで言わせている)、芸術家が政府から疎んじられ、追放されるという事は歴史上かなり数が多い。これは芸術というのは極めつけの個人主義であるため、全体主義国家を目指す政府とはそりが合わないという事実による。芸術とはそもそも自由を求めるものだから。ただし、こういった自由は国には好まれない。ただ自由を求めるというそれだけで迫害される時代というのもあるのだ。アメリカでのいわゆる赤狩りがその系譜に入るだろう。かつての日本もそうだったが、いつ又その時代が来るとも限らない。
ネルーダはまさしくその象徴たる人物として描かれているのが本作の描き方だろう。 だとすれば、マリオが本当にネルーダから得たものは、単に詩を詠む方法ではない。むしろ芸術による魂の自由というものをここで発見したということになる。
マリオがネルーダの言葉を全部分かったとは思えない。それにイタリアは敗戦して、雇用状況が最悪だったかもしれないが、基本的にこんな小さな島では政府の圧迫というのも感じられるものではない。とはいえ、その中で自分がいかに色々なものに縛られていたかを知っていくことは決して悪い事じゃない。
ただ、その自由を知ってしまった人間というのは、今度は大変な生き方をしなければならなくなるのも事実。マリオは最後、自由のためにネルーダの詩を歌おうとし、それで死んでいく。自由というものを知ってしまった人間は、本当に幸せなのか、それとも不幸せなのか。色々考えさせられるラストシーンでもあった。
ただ、マリオ自身は決して不幸ではなかったと思いたい。ネルーダのような偉大な人物にはなれなくとも、自由を求める事で、生きる意味を見いだしたのだから。ある意味ではとても羨ましい生き方なのかも。
丁度舞台となっている時期と場所はヴィスコンティが『揺れる大地』(1948)作ったのと前後しているのも面白い符号。この時代にはどちらの側面も確かに存在しているのだ。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (0 人) | 投票はまだありません |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。