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[コメント] 太陽と月に背いて(1995/英=仏=ベルギー)

閉塞感に立ち向かいもがく姿が‥

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







公開当時〜旧世紀中に見てれば印象も違ったろうけどな‥。 今ってこういう時代だからさ。

20年後に観たらまた違うだろうな。<021208>

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キリスト教では「人間の」魂は永遠だと説く。

魂が永遠ならば、朽ちてしまう体を優先的に愛するのが 正常だ。ヴェルレーヌはそう弁解する。 ‥言うまでもなくこれは曲解である。

しかし、これがこの映画の中での世界的な常識だったのだろう。 犬嫌い(でもその形態模写は巧い)のランボーは、彼らの言う「愛」を 自己愛と不安だけだ‥という。

この憂慮すべき空気を革命しようと詩を使命とした。

■体か、心か

魂に性別がないのであれば、本物の愛は性別に因らない。 それが彼、ランボーの実践だったのだろう。

肉欲の対象として男を「妻」扱いした。

この関係を言葉の上に持ち出した時、二人の関係は壊れた。 それは相手を「給仕」と呼んだとき。

ヴェルレーヌは妻を女扱いし、友ランボーを男扱いした。 つまり己で男と女を肉体的に演じわけていた。

それを非難的に見ていたかもしれないランボーだが、 彼自信も、これまでパトロンとしてヴェルレーヌを「夫」扱いし、 自らが妻のように依存していたにすぎなかった。

独りになってそれに気づいた。 まさに捨てられた女のように動揺し、ヒステリックに泣き叫んだ。

■ふたりは共に「妻」に捨てられ「独り」になった。

■おなじ左手に風穴をあけた。

■蛇足のようだが、共に右膝を病んだ。

相手に左手を打ち抜かれた時、それが決定的になった。

監獄生活を強いられたのはヴェルレーヌ一人だけだった事実は、 ベッドでは役割が交代してはいなかった事を示しているのだろう。 あの美しい彼(笑)を、女扱いしてはいなかったのだ。

「左手」は、おそらく「自己愛」を表しており 自慰の象徴なのだろう。 それを他人に「貫かれる」というのは、処女喪失なのか(笑)。

象徴的すぎて、どう理解していいか分かり難かった映画の終盤だが、 こう考えてみると、その後のランボーが女を抱き、肉体の一部(足)を失い 何処も失いたくないと嘆いたのも、少女が女になるのを怖れている ようなステップを象徴しているのだろうか。

だから改宗したと妹によって語られたその後。ランボーは、女になった後に 少女の時に怖れていたことを滑稽に思い返すように、改宗前に書いた詩を やはり恥ずかしい物だと感じたのではないだろうか。 そして、同じく足を病んだが失わずにいるヴェルレーヌが、その詩を賛辞 し続けていることは、まだ、少女の気持ちから脱却してはいない事を 表している。

このように二人を差別化して対象させることによって物語を締め括る。 そのような手法でこの映画は「詩」というものの精神的な位置を 浮き彫りにしようとしていたのだろう。

■「自分の体験だけじゃ間に合わない! 普遍的な体験が必要なんだ!」

「魂の無性別」を信じる事は「子どもそのもの」であり、 万物の固持を切望するのも、またこれに等しい。<02120918>

(評価:★3)

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