コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] トーキング・ヘッド(1992/日)

押井守的『映画に愛を込めて』。でも影響を受ける相手が鈴木清順なのは間違いじゃない?
ペペロンチーノ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







黒澤は言った。「映画はサイレントへ回帰する」(←正確ではないが、ま、だいたいこんな事だったと思う)。 つまりどういうことかと言うと、「状況は台詞ではなく動きで見せる」という事なのである。

映画は、まず動く絵があり、やがて音が付き、色が付いたことは、押井守自身がこの映画で語っている。

果たしてアニメも同じだろうか?

冒頭の(紙芝居アニメでおなじみマクロスで有名な)美樹本晴彦キャラのアニメで象徴しているように(?)、やはり元は“紙芝居”ではないのだろうか?この映画そのものが、その饒舌な語りと舞台的演出によって、まるで紙芝居の様に見えるのは気のせいなのか?

リュミエールの『列車の到着』、メリエスの『月世界旅行』といったオマージュが散りばめられ、押井守が「映画という魔物」にとりつかれ愛していることはよく分かる。そして彼の実写が「とにかくビックリするような画面を撮りたい」鈴木清順に影響を受けている事もよく分かる(実際、『紅い眼鏡』は『殺しの烙印』のスタイルを参考にしたという)。よく分かる、よく分かるんだけど・・・

黒澤はこうも言った。「いい脚本がなければ、絶対に面白い映画は撮れない」

その発生はともかく、約100年もの間「映画」と「物語」は不可分の関係を続けてきた。音や色以上に、もはや切り離す事は不可能なのである。

(評価:★3)

投票

このコメントを気に入った人達 (0 人)投票はまだありません

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。