[コメント] アサシンズ(1997/独=仏)
映画を見終った人むけのレビューです。
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粗筋を前もって知っていたら、期待は自然と大きくなるような内容。それにしても観ているうちにじっと座っているのがしんどくなるような、だらたらと映像を流すことによって映像そのものに監督のテーマを語らせる方法論はその狙いをどうしようもなく冗漫にしてしまっている。死期を漠然と悟ってる殺し屋(ミシェル・セロー)が秘伝の殺しの職人芸的な技術を弱みを握った青年(マチュー・カソビッツ)に目をつけて、実行と教育をかねて強引に伝授する。が、殺し屋の資質を根本的に欠く青年は殺し屋の本質的な面より、その言葉が持つ“響き”に浮ついて、殺し屋たることを解さずに少年を勝手に仲間に入れ、その挙句自分は殺しに失敗して少年が代わりに成功する。殺し屋は青年の独断と失敗に激怒し、彼を殺し少年も殺そうとするが、更なる資質を少年に感じて彼を青年の代わりの新しい後継者とみなす。
殺し屋の“殺しの技”を伝統的な職人芸とみなし、それをまるで一子相伝のように伝授するという「北斗の拳」を彷彿させるような漫画的な要素は、作者の側に殺し屋についての“引き出し”が多ければ多いほど、説得力を増して興味深くなるし、さらには殺し屋という(ある意味馬鹿馬鹿しい)存在そのものを物語においてリアリティをもって維持するためのへの求心力となる。ところがどうもマチュー・カソビッツには殺し屋としての“引き出し”がそんなにあるわけではないし、あっても引出しの中に観る者に応えうるだけの小道具を持ち合わせてはいないようだ。職人芸にこだわるなら、少なくとも多面的にその職人芸そのものを紹介することによって観る者を説得し、納得させ、更に大事なのは感嘆(意表を突くというか……)させることが必要だと思う。感嘆させることが現実には存在しない架空の事物にリアリティを与え、銀幕の向こうの想像空間でバラバラに崩壊しないだけの求心力のエネルギーになりうると思うから。ロベール・ブレッソンの『スリ』でのスリたちの盗みの手段の様々なバリエーションはクローズアップの多用によるディテールの映像そのものによって観る者を納得させ、説得し、感嘆させる。しかしこの映画の殺し屋は技術面より精神面か強調されており、大声で殺し屋たることの薀蓄を垂れる場面が多く、まさに職人的な殺し屋というより職人そのもの、職人芸というより職人気質を感じてしまう。その辺りにマチュー・カソビッツのブレッソンの伝統を汲みながら遠く及ばない稚拙さを感じる。
ただ職人芸へのこだわりに関してのカソビッツの稚拙さは別な面からの説明では問題とならない。というのも一つには前半部では隠れていたこの映画の主題である若年層の精神的荒廃が職人たる殺し屋の死期が近づいて衰えていくにつれて反比例的に台頭してきて、実は真の主題そのものであったことが明らかになるから。殺し屋の職人芸という面白いテーマに対する等閑な取り組み方は、カソビッツの稚拙さの表れでありながら、実はそれが真のテーマへの誘い水にすぎず、全体的に映画の中でそのテーマの縁戚的な役割しか果たしてないことと符合している。そのテーマとは若年層の暴力に傾倒し生命を軽んずる精神的荒廃。虚無。殺し屋の職人芸は所詮殺しのための手段、映画のテーマを補強するための手段でしかないのだ。殺すのは銃ではなく、人なのだから。
精神的荒廃を醸成するのはテレビを中心としたマスメディアとゲームであることが執拗に織り込まれる。暴力的な映像そのものよりも、単なるCMであったり動物ドキュメンタリーであったりと一見暴力とは無縁の空虚な映像そのもの。更に再三のザッピングは映像や音声が意味をなすことを拒絶することによって、ただでさえ空虚なテレビ映像の空虚さをいやがうえにも強調している。さらにはゲームの影響。興味深いのは青年はテレビと向き合うシーンが、少年はゲームと向き合うシーンが多いこと。このことは青年が殺し屋としての資質に欠いていたこととも併せて考慮すると、ゲームによってもたらされる精神的荒廃はテレビよりも大きく、根深いことを暗示していると思われる。カソビッツは職人芸をディテールを重ねた映像そのものに語らせて観る者を納得させ説得し感嘆させるより、青少年の精神的荒廃の醸成過程をひたすらテレビとゲームと向き合う彼らの虚無的な姿を長々と晒し出すことによってその映像そのものに語らせている。ただしその方法論は面白いと思うものの、テレビとゲームの影響を強調するためのシーンがどうしても長くなって冗漫に感じられてしまう。影響を強調するには余韻が必要だし、ある程度の長さが必要なのだが、つまり方法論として冗漫であることは避けられないものの、それで映画自体が冗漫に感じられてしまうのだ。方法論として冗漫であることが意図的なので、ある程度は許容するしかない。その二律背反性のバランスをとるには、いささか突飛というか単純すぎるかもしれないけど、編集でもっと贅肉を削って上映時間を短くするしかないと思う。マスメディアとゲームの精神的荒廃への影響をだらだらとそのシーンを流すという冗漫さで強調するのがカソビッツの方法論なのに映画そのものが冗漫に思えてしまうのでは本末転倒だから。
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