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[コメント] 日蔭のふたり(1996/英)

主人公ふたりに共感はしにくいし、余りにも幼い愛ではないかと思う。ただ、―
KEI

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







まず、ジュード。食べ物が無い為に妻がブタを屠殺するシーンがある。彼はただ見ているのみ。ちょっと手を貸した後は、部屋に戻って本を読む。そして外へ出ていく。知識だけの生活力のない男だ。

その知識はどんな知識か。酒場で聖書をラテン語で暗唱し、皆にスゴいと言ってもらうだけ。そんなつまらない知識だと、自身で分かっているところがまたつらい。

大学への入学は拒否され、石工の毎日を過ごす。「独学で理想を抱くものは、見下げられる」―閉鎖的な時代だったとはいえる。

そして、スー。わがままで奔放で、いつも自由でありたいという女。彼女は型苦しい寮から逃げ出し、ジュードを訪ねて来る。その割には「あなたなんか愛していない」と言い、その後別の男と結婚する。

結局は、ジュードと暮らし始めるが「(妻ではなく)男とは友人として暮らしたい」そして「書類なんかで結婚を認められるのは嫌だ」と言う。神の許可も何も必要ではない(この為原著は教会から圧力をかけられた)。つまり大事なのはその時の自分の心に従うこと。

生活力のない男と奔放な女。こんな二人の行く末は想像に難くない。堕ちてゆくのみだ。 スーの何も考えていない不用意な発言で、悲劇も起きる。しかし、ラストが衝撃だ。ジュードが覚悟を決めた。二人の愛はやっと動き始めたといってよい。スーが未だ闇の中なので前途多難だが、希望に満ちた未来につながる良いラストだった。

実はこのラストは原著と真反対である。映画の製作者たちは何故このようなラストにしたのか。原作発表100年後に何故こんな映画を作ったのか。

そして、今ではスーは近代的な自由な女として見られている。

色んなことがあるが、社会で暮らすには‘責任’というものがあると思う。単に自由に生きたいというのは子供と一緒だ。ジュードはその責任をしっかり意識したように思う。その上で自分の信念に従って生きるということだ。まだその意識から遠いスーを自分と同じ高みにまで上げる、これが今後の二人が自分たちの愛を育てるということになるのであろう。これが製作者の言いたかった二人の愛の行方ではないかと思う。

(評価:★5)

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