[コメント] ビリー・ザ・キッド 21才の生涯(1973/米)
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『ビリー・ザ・キッド 21才の生涯』はビリー・ザ・キッドやパットギャレットに纏わるアメリカの伝承や伝説をサム・ペキンパー風に徹底的に燻して彼になりに磨き上げたような感じだとすれば、アーサー・ペンの『左ききの拳銃』は砂埃で汚れた伝承や伝説を経て、21歳の若さのままで年老いてしまったように見えるビリー・ザ・キッドの汚れと垢を洗い落として瑞々しい若さ取り戻したような感じ。前者の型に嵌ったような流れ者のダンディズム、無法者同士の暗黙の了解と秘められた禁欲的な友情、観念が先行しすぎて言動に人間的な円滑さを欠くほど渋すぎる人物造形などのよくいえば“ペキンパー風”悪くいえば“かっこつけ(見掛け倒し)”あるいは“韜晦趣味”に比べると、後者は明快で瑞々しくありきたりだが、キッドにもギャレットにも伝説の臭みのない人間味を感じるため馴染むものを感じる。
ギャレットが保安官になる理由一つとっても前者の独り善がりのダンディズムは理解しようという欲求を起こさせないし、そのもったいぶった曖昧さは人物造形に奥行きを与えて男臭い魅力を増しているどころかただ単に鼻につく。ギャレットの結婚式で殺人騒動を起こして彼の顔を潰した。そのようなかつての“銃が法”であった西部ではありきたりのような単純な理由で、伝説の英雄キッドが殺されるのでは満足いかないのだろうか? “西部の男の美学”や“流れ者のダンディズム”などの監督なりの観念が、シンプルなはずの西部の舞台であらゆるものに老化現象を起こされている。ただでさえ伝説や伝承は美化や理想化の手垢で人物を汚してしまうのに、この映画ではペキンパーなりの哲学(よく知らないが、6本くらいしか観たことないし)が、登場人物から生気と覇気を奪い、物語を鈍重で退屈なものにしている。実際のところクリス・クリストファーソン演ずるキッドが素直に21歳に思える人っているのだろうか? あの青春真っ盛りはずのキッドはどうみても21歳にしてもはや老人だ。伝説、伝承で古びている上に哲学、美学、抽象観念などの砂混じりの汚水による洗礼を幾度も浴びて汚れてしまった人物造形に魅力はない。
単純にクリス・クリストファーソンとポール・ニューマンの俳優としての外観や資質の違いも一因だろうが、それだけでは説明がつかないだろう。西部劇はただでさえ舞台がシンプルで代わり映えがしない。登場人物も互換性がきくような紋切り型が多く、どこかで観たような人物が入れ替わり立ち代り登場する。だがそれは欠点ではなくむしろ手がける監督によっては美点になるのだ。西部の荒地を往来する駅馬車の轍が大地に刻まれてくっきり残るように、紋切り型の登場人物たちは、開拓期の西部の舞台でかつて実際に生まれ、流れ着き、恋をし、決闘をし、騙しあい、馬を盗み、娼婦に溺れ、保安官に追われ、誰にも看取られることなく独り荒野で息絶えた人間たちが時代の淘汰を経て人々の好みに合うように抽象されたエッセンス、フロンティアスピリットとその周辺の善悪や理想や挫折などの抽象概念の結晶なのだから。だから通俗性や紋切り型はどうしたって付き纏うし、ストーリーが陳腐なワンパターンに陥ることは避けがたい。しかし、優れた監督はシンプルは紋切り型の登場人物に瑞々しい人間味を注入する。余分な伝説や伝説の汚れを落として、その普遍的な人物像に時代に耐えうるだけの息吹を与える。最良の素材は揃っているのだから、あとは素材の美味さを十二分に引き出せばいのだ。あるいは意欲的な監督なら通俗性に反発し、人物像に瑞々しさを取り戻すようなシンプルだが難しい作業より、全く新しい人物造形を持ち込んだり、自分なりの価値観を注ぎ込んで極めて哲学的な作品に仕上げるかもしれない。創作料理みたいなものだ。西部劇はシンプルであるが故に独自のメタファーを織り成すにはもってこいの舞台だから。それで伝説上の登場人物が魅力を取り戻せば問題ないが、この映画では成功しているとは思えない。創作料理が素材のよさをだいなしにしている。それはクリス・クリストファーソン演ずるキッドが21歳の若者には全然見えないことが何よりの証拠だ。
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