[コメント] 蝶々夫人(1955/日=伊)
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ふたりの別れに納得できる説明がない。どうやら両国の結婚観の違いによる悲劇という処で説明されるようなのだが、それが実に判りにくい。原作ではもっと解りやすいのだろう。そうでなくてはあんなに流行るはずがない。
まず、導入のナレーションで日本の結婚は便宜的なものだという意味不明の解説が入る(芸者はみんな両家の子女という出鱈目解説も入る)。宴席でピンカートンは蝶々に外国語で語り、蝶々は意味が判らず曖昧に笑って、それで悲劇が始まったと云われる。しかし、神主を呼んで新居で婚礼の式を執り行ったのに結婚していないという解釈が生まれたのは、明らかにピンカートン側(領事もついているのに)の手落ちだろう。風習が違うのは当然のことだ。
ただ結婚式の直前に、蝶々が「新しい神様が導いて下さる」とキリスト教のことを語って手を合わせるのは、それならキリスト教式の結婚式が必要とピンカートンに解釈させたかも知れない。小杉勇の坊主が宴席の最中に突然現れて群衆を蹴散らすのは予見的なのだろう。しかしキリスト教も仏教もいかにも判りにくい。領事が後半に再登場して、金のない蝶々にヤマドリというブルジョアとの結婚を勧めたりしている。
八千草は宴席で半透明の紫の傘と扇子と振袖で華麗な舞を見せる。音声が先にあってそこに演技を合わせた由だがズレて見苦しいというほどのことはない。そして圧巻は新居での結婚式に、築山から同じ紫の傘持って延々五十人ばかりが下りてくる振袖娘。油絵のようなカラーが浮世離れした感を大いに演出している。集団の舞踏はなぜかディズニー的なものを想起させられた。夜まで庭でふたり歌いまくる件もとてもいい。
ただ、この前半が出来過ぎなため、後半は地味になってしまった。物語もピンカートンは戻らないと嘆くばかりで、別に巧みな謎解きがある訳でもなく文化差の悲劇が抉られる訳でもなく平板でいけない。ただ有名な歌が唄われるぐらいのこと。
蝶々は大村生まれで婚礼のとき15歳。ピンカートンはアメリカの海軍大尉(イタリア人だと思っていた)。3年経って、もう僕のことなど忘れているだろうと妻子連れて再訪するピンカートンはなかなか間抜け。導入はナレーションがあり、OP後はずっと科白が唄。時は長崎1900年。なぜアメリカ海軍は長崎にいたのだろう。
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