[コメント] 暴力脱獄(1967/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
映画が人生に関わる考えを作り出すと言うことは、多分映画好きな人だったら経験したことがあるだろう。映画に限らず、本やテレビでもそうだろうけど、やはり映画の感動は格別なもので、私が未だに映画を大好きと言えるのは、単に映画を知ったかぶりして批評するためでも(そう思われがちだが)、単に数を観ることを競っているわけでもない。その感動が忘れられないし、又そういう思いをさせてくれる作品を探し求めているだけだ。常に衝撃を与えてくれる作品を私は追い求めている。
そういう意味で、これまで私自身の考えや性格に影響を与えた映画というのはいくつも挙げることが出来るのだが、考えていくと、不思議とそういう衝撃を与えてくれた複数の作品の中で同じ俳優が登場することがある。
それはオーソン=ウェルズであったり、ロバート=レッドフォードだったり、クリント=イーストウッドだったりメル=ギブソンだったりするわけだが(…今挙げた人たちって全員監督でもあるんだな。自分の傾向が分かってきたぞ)、ポール=ニューマンはその筆頭かもしれない。
彼はなんか常に私の前にいる。多分それは、彼が反逆者として常にあったからなのだろう。
実生活でも型破りな人物とは伝え聞くが、彼は映画界にあっても様々な影響を与えていた。『ハッド』(1962)ではアメリカの理想としている家族というものを内側から破壊していく存在として、『明日に向かって撃て』(1969)では制度に対する反逆者として…正確には彼は「反抗者」ではない。むしろそうやってしか生きていけない人物として描かれるのだ。結果的に社会はそれを受け入れることは出来ず、彼を排除にかかる。その軋轢に悩み続けるのが彼の存在感となっている。
考えてみると、社会には「〜しなければならない」ことが多い。それは規則であったり、あるいは伝統であったり、時には風習であったり。私の場合、それを割と当たり前として受け入れるタイプの人間だと思うし、規則に反する人というのは、あまり好ましくはないと思う(割と体育会系だし)。しかし一方で、もちろんそういう規則に窮屈さを覚え、反抗を覚えることもしばしば。体は従順に従い、精神は反抗という、まあ、一般的な小市民的な思想ではないかと思う(思うんだけど)。
しかし、映画というのはそういう話はむしろ少ない。むしろ反抗が描かれるからこそ楽しいのだが、その中でもニューマンは、私の中にある割り切れない部分をそのまま自然体で演じてくれるからこそ、引きつけられるキャラクタになるのだろう。どういう風にあがこうとも、結局下手くそな生き方しかできない彼のような生き方は、私自身の中にある何かが引きつけられる。
ここでのニューマン演じるルークの姿はその典型のようなキャラクタであり、彼は何に対しての反抗ではなく、ただ何にも負けたくないと言う、単純な価値観しか持っていない。しかし、その価値観は当然ながら規則によって阻まれてしまうし、そういう人間を野放しには出来ない。結局だから刑務所に入れられるしかないのであり、更にその刑務所自体が彼の精神自体を封じることは出来ない。
ルークは反抗を繰り返しているように見えるが、その心は、単純に自由でいたかっただけなんだろう。何者にも囚われない自分自身。それだけを表現しようとしたのがルークだった。
もちろんこの生き方は苦労を約束されたようなものだ。従うと言うことが出来ないし、土台目的を持たないのだから、自分自身のパワーをもてあまし続ける。自由でありたいと思いながら、一人でいても苦しいし、人といても苦しい。更にここでのルークは度胸だけは据わっていても腕っ節はさほど強くない。無理を遠そうとしても、結果的にそれが阻まれ続ける。だから自分が納得いくまで反抗し続けるしか彼には出来ない。その結果として、この物語の結末はこうならざるを得なかったはず。これ以外の結末はあり得ない。
まるでピエロのような生き方。しかし、その生き方が格好良いと思える。それが私という人間だと、この作品を観てずいぶん時間が経過したが、今になってそう思える。
本作の多くはオープンセットで組んだのだが、あまりに出来が良すぎたため、カリフォルニア州サン・ホアキン郡の建築基準監察官がパトロールに来て立ち入り検査を始め、建築基準不適合のシールを貼りだしたという逸話もある。
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