コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] マトリックス(1999/米)

人類とコンピュータの対立というありふれた図式でも、
シーチキン

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







動力源として人体を支配するコンピュータと仮想世界という設定は、SFとしても十分魅力的であり、それを映像でみせたところがすごい。

すごい、の一言であった。ただもう引き込まれて圧倒された。想像を絶するアクションと映像の数々。息をもつかせず、というのはこういうことかと思い知った。そしてこの映画のすごいのは、この技術と映像にとどまらず、それを生かしきったアイディアがあったればこそである。

もうちょっとひねってもいいかなというところもあるし、細かい設定に突っ込めば、どうかなというのもなくはないが、それでも映像、ストーリーともリアルさがある。

特に、コンピュータの支配から脱して自由を求める闘いの、その現実の過酷さ、といっても寒いとか飯がまずい、というレベルから始まっているが、それに耐えきれず、仮想世界での満足を選ぶ裏切り者などが、この作品のテーマをもりたて、引き締めている。

ところでこの映画の中で、マトリックスの世界と現実の世界を行き来するには、有線電話を利用していた。会話では携帯電話(発信機替わりにも使われていたが)でも可能だが、マトリックス世界への出入りは携帯電話では不可能、という設定が、無敵のエージェントに対する人間側の唯一つの対抗手段=マトリックスからの離脱を限定したものにし、逃走と追跡のスリルを盛り上げていた。

聞いた話では、携帯電話での行き来が不可能になっているのは、この映画の脚本作成段階では、まだ携帯電話からのインターネット接続は、可能不可能どころか、そのアイディアさえなかった時代らしい。(ちなみにNTTドコモがiモード構想を発表したのは1999年1月のこと)

したがってマトリックス世界というのが、その基本アイディアは当時既に発達していたインターネット上の仮想世界をベースにしていることがわかるし、だからネット接続できない携帯電話では、通信機の役割しか果たさなかったのだろう。

これほど未来感覚を先取りしたような映画でも、現実のIT技術の発展がそれを凌駕している興味深い例でもある。ただ、ふと思ったのだが、後に携帯電話からのネット接続が可能になったことによって、このシリーズの制作上、苦しい制約が課せられたのではないだろうか?

それは主人公であるネオ以外の人間が、強力なマトリックス世界のエージェントたちとドラマチックに対抗する手段が無くなってしまったということである。

ネオはこの映画の最後では無敵のエージェントをマトリックス世界でも圧倒しうる力を身につけたが、それ以外の人間にとっては、相変わらずエージェントは無敵の存在である。だからネオ以外の人間にとっては、エージェントと対抗するには、時には抵抗しながらいかに首尾よく有線電話のあるところまでたどり着いて、無事、マトリックス世界から脱出するかにかかっていた。

それがネット接続が可能な携帯電話が実社会に爆発的に普及してしまったもとでは、強力なエージェントから逃げる人間は、危なくなったらさっさとiモード対応の携帯電話で逃げればよい、となってしまって、これではスリルも何もあったものではない。

かくてこの映画のシリーズでは、普通の人間がマトリックス世界の強敵たちとどうわたりあうか、というクライマックスは成立しがたくなり、そういう強敵とわたりあう役割は、主人公であるネオがその一身に背負うしかなくなった。

おまけにこの映画の最後でエージェントをあっさりと葬ったネオが、対決のスリルを盛り上げようとすれば、もはや双方とも加速度的に、バカバカしいくらいの強さを身につけるしかなくなったのである。

そう思うと、シリーズ2作目『リローデッド』、3作目『レボリューション』が、現実社会を洞察し、練り上げられた脚本を備えたこの1作目と比べて、著しくかすんで見えるのもなんとなく納得がいくなあ。

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (1 人)たかひこ[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。