[コメント] エクソシスト2(1977/米)
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第一作目の『エクソシスト』から四年後を舞台とする、シリーズ第二作。実際、この『2』が公開されたのも、第一作から四年後の事。前作で悪魔に取り憑かれていた少女リーガンも、成長してお姉さんになりました…、が、前作のような、どこにでも居そうな普通の子、いたいけな思春期の少女としての面影は後退し、特殊能力を秘めた、アクティブな女性になってます。要は、その分リアリズムも後退しているという事です。 前作では、不安と恐怖に翻弄される立場だったのが、今回は「私が悪魔をやっつけてやるわ!」というくらいの勢いを得てカムバック。でもね、そういうのって、ホラー映画としては致命的なんだけどな。主役級が気をシッカリと保ちすぎていて、感情移入する側の観客も、観ていてあんまり怖さを感じなくなってしまうから。『エイリアン4』でのリプリーや、『スクリーム3』のシドニーなどは、同じ轍を踏んだ例。 ただ、リーガン役のリンダ・ブレアは、美人でもなければ可愛くもないんだけど、観ているうちになぜか魅力的に見えてしまうから不思議。
この『2』は、何か「機械仕掛けの悪魔」とでも呼びたくなる、科学とオカルトの奇妙なハイブリットが行われている。リーガンを診療している精神科医のタスキン女医が、彼女自ら開発した催眠マシンで、リーガンの心の中に侵入しようとするんだけど、これは、二人の被験者がヘッドギアを着け、単調な光と音の反復によって、相手の脳波に同調する、という、中学生の工作みたいなレベルの機械。これで相手の深層心理のイメージを共有できる、などという設定のトンデモ具合には、早くもこの映画全体の程度の低さが予測できてしまう。 尤も、こうした科学的にいい加減な装置を、悪魔祓いの媒体に置いた意図というのは、一応は汲み取れる。例えばこの映画には、悪魔のメタファーとしてイナゴが出てくるのだけど、このイナゴと姿形が意外と似ている飛行機が、イナゴのイメージと重なるようにして映し出される。悪魔の存在と、文明の利器。この両者が同等に扱われている事で、この映画のメッセージが見えてくる。つまり、霊的な力も科学の力も、破壊的な要素を秘めているのと同時に、上手に使う事によって善を為す事が出来る、という事。この辺は、アフリカの霊媒師が登場する場面での、最後の意外な場面転換に、最も如実に表れているだろう。
歴史的に、文明社会の代表選手のような自負を示してきたキリスト教と、未開の地、暗黒大陸として蔑まれてきたと同時に、人類文化の発祥地としての位置づけを持つ、アフリカ。この、植民者対植民地のような構図が、この『2』のもう一つの軸。原題の副題である「the Heretic」は、「異教徒」を意味する。しかし、それはまた、タスキン女医が代表する、唯物論的科学主義という、アフリカの原始信仰とは真逆の‘異端’をも暗示しているのかも知れない。 この、アフリカというモチーフや、虫の大群を悪魔のメタファーとする点などは、後に『エクソシスト・ビギニング』にも継承されている。ただ、『ビギニング』が、ホラー映画というよりはインディ・ジョーンズ的な方向に脱線しつつも、最後の最後には、第一作や『3』に見られるような、おぞましさと美しさ、恐怖と神聖さの融合を(表現の方向性は違っているとはいえ)見せていたのに対し、この『2』の映像は、頭から尻尾まで全て、ただのB級ホラー以外の何ものでもない。音楽はエンリコ・モリコーネが担当しているのだけど、これもまた、どうにも俗っぽい印象が拭えない。特に、ダリオ・アルジェント風(?)のエンディング・テーマには、うんざり。
クライマックスの、悪魔との対決シーンも大いに問題あり。前作のメリル神父が、聖書の言葉を一心不乱に唱えつつ、少女を浄化せんと精神的な格闘を行なっていたのに対し、今度のラモント神父の闘いようは、やたらとヴァイオレンス。悪魔を退治しようとしているというよりも、神父さん自身が悪魔的になってしまったようにさえ見えてしまう。 前作でのエクソシズムは、飽く迄も、少女の部屋の中という、小さな空間に限定されていた。しかし、思春期の少女にとって個室とは、心と体のアンバランスに戸惑い始めた自分を守る、プライヴェートな空間であり、精神が激しく格闘する小世界とも呼べる筈。だから、善と悪の決戦の場が、この小空間に限定されたのは、却って劇的効果を極限まで高めていた(『3』もシッカリ限定してたからね。さすが原作者が脚本&監督しただけの事はある)。 それに引き換え、今回は、空を舞うイナゴの大群にせよ、最後の決戦の場面にせよ、空間的スケールは可能な限り拡大し、視覚的にはよりスペクタクルに、派手派手に、と、俗っぽい欲に駆られた描写へ向かう。要は商業映画的な紋切型に先祖返りしてしまっている。それと反比例するように、スピリチュアルな厳粛さ、壮大さは、安物のゴム風船のように萎んでしまった。
異端という、かなり際どいテーマに着目した点は評価するけど、コンセプトだけじゃ映画は作れないという見本のような駄作。全てがショボすぎて、苦痛を覚えるほど退屈だった。 あと、これもB級らしい所なんだけど、女優さんの乳が気になる場面がチラホラ。意味無く風呂上りで登場して、服が透けてたり、リーガンがノーブラだったりして。こんな事で星の数が一つでも増えると思ったら大間違いだぞ。
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