[コメント] 地下水道(1957/ポーランド)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
前半、登場人物達が地上で見せていた生活と人格が、後半では、地下の闇の中で次第に真黒に穢されていく。単なるドキュメンタリータッチに終わらない寓話性が込められている。
恋人関係にあったモンドリ中尉とハリンカ。地下水道で、絶望感に駆られたハリンカは「私がここにいるのにどうして外に出ようとするの」とモンドリに問うが、彼の「妻子が待っている」という告白を受け、拳銃自殺をする。
ピアノが得意な芸術家ミハウは、地下水道の惨状を見て、ダンテの描く地獄の光景を思い出し、その繊細さが災いしてか、狂気の淵に沈み、笛を吹きながら地下水道を幽霊のように彷徨う。
小隊長ヤツェックは、勇敢に戦って受けた傷のせいで、虫の息になり、周囲の状況すら判別できなくなる。その彼を愛しているデイジーは、自分一人なら登れたヴィルチャ街への通路を昇らず、彼が「先に出て助けを呼んでくれ」と言うのも聞かずに、結局は二人共に逃げ場が無くなる。
生真面目な中隊長ザドラ中尉は、自分だけは助かりたいと望む記録係のクラ軍曹が言う「後ろの連中は、先に行ってくれ、と言っています」「ちゃんと後ろの皆はついて来ています」という嘘に騙され続け、最後にはせっかく脱出できたにも関らず、自らの責任感に促がされて、地下に戻る。
闇の中、狭い通路をバラバラに別れた状態で彷徨う人々は、僅かな光と、通路に反響する音だけが頼り、という極度に情報量が少ない状況に置かれ、徐々にその耳目は、錯覚や幻覚に惑わされていく。隊の皆が、ドイツ軍から逃れる為にと地下水道に入った途端、中にいた人々は「ドイツ軍が毒ガスを撒いた」と恐慌状態を繰り広げている。既に地下水道は疑心暗鬼に満たされているのだ。この騒動を「ただの風聞だ」と意に介さずに進むのも、要は元来た道を戻っても仕方がなく、逃げ場を求めるなら進むしかないからではないのか?映画の冒頭で、次々に崩壊していく建物の様子が延々と映し出されていたのも、地上に安心して身を隠す場所が無い状況を示していた。
地下水道では、単に地上とのコントラストのみならず、地下でなお希望を抱いて進む行為が、却って絶望の内へ人々を引き摺りこむ過程が執拗に描かれる。
モンドリにとっての希望だった妻子は、愛人のハリンカにとっては絶望だった。外に出たモンドリも、待ち構えていたドイツ軍に捕えられ、妻子の写真も指輪も奪われる。
デイジーが、地下の闇の中で希望を見出そうと書いた「私はヤツェックを愛している」の文字は、ヴィルチャ街の名を記した文字を探していたザドラ達には、ぬか喜びとそれに続く絶望しか与えない。
光の射す方に出口があると希望を持って進んでいったデイジーとヤツェックの前に現れたのは、鉄格子。その向こうには、河が続いている。脱出不可能なのを悟ったデイジーが、ヤツェックに「緑の草が見える」と嘘をつき、「光が眩しすぎるから、目を開けないで」と言う台詞は、もはや闇の中にいて、何も知らないでいる方が、希望を持っていられるのだという皮肉な状況を物語っている。
最後にザドラ達は、ドイツ軍が仕掛けた手榴弾に行く手を阻まれる。副官スマクリは、その通路だけが希望だと考え、自ら処理を試みるが、却ってそのせいで爆死してしまう。結果的に爆弾は取り除かれたので、ザドラとクラは外に出られるが、そのせいでクラは、裏切りを知ったザドラによって射殺されるのだ。
自らの希望によっても、他人の希望によっても、絶望を与えられる人間たち。迷宮のように入り組んだ地下水道で、ネットワーク状に、思わぬ所で関係し合い、結果的に、互いに絶望に陥れ合う。汚水に塗れて黒く汚れ、暗中模索する様は、もはやモノクロ映像=黒の強度による形象そのものに塗れているかのようだ。
このように、単なる寓話性を超えた実験性を孕んだこの映画だが、ワイダは、実際に祖国に起こった悲劇を、飽く迄も人間の劇として描く事に固執している。例えば、傷を負って動けずにいる男の叫びが、狭い通路に反響して、もはや人間のものに聞こえず、得体の知れない、おぞましい音の響きに還元されてしまうという、人間性の解体のような描写も、やはり一人の男の絶望の声、という人間的な状況に回収される。幻覚や錯覚に囚われる人間を描いていても、観客に幻覚や錯覚を呼び起こすような事はない、穏健な作品なのだ。地下水道は暗いが、観客が状況を理解するには何の苦労も要らない。むしろ、闇で何も見えなくなる場面が何分も続いて、映画なのか台詞劇なのかもよく分からなくなるような、そんな無茶をしてくれた方が、見応えがあった筈。ワイダはそうした、人間を純然たる光学的・音響的なエレメントに還元してしまおうというような映像狂いの人ではなく、人間的、余りに人間的な作家だった。
ワイダのように誠実で理性的な人が撮るよりも、もっと実験的な、アート寄りの監督か、頭のおかしなホラー映画監督にでも撮らせた方が、映画的には斬新になり得たように思える。例えばこの設定をラース・フォン・トリアーに撮らせたら、どうなるだろう?
恐らくは、僕がこんな不満を覚えるのは、平和な日本で映画を消費しているだけの人間であるからに過ぎず、ワイダにはそれよりも伝えたい現実、実際に犠牲になった人々の悲劇、蹂躙された祖国への思いがあったのだろうとは思うのだが…。
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