[コメント] 伊豆の踊子(1933/日)
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土肥金山という処は当時佐渡に次ぐ金山であったらしい。原作に付け加えられた金鉱の一攫千金話は、宿屋の主人(何で金で儲けたのに宿屋を止めないのかよく判らないが)新井淳は実は小林十九二と田中絹代の旅芸人兄妹を見守っているのだ、というドンデン返しに至る。
小林は新井に「いい人間ではあるが、金を持たせたら身の持てない男」と評される。絹代は新井の息子の嫁にいずれ向かえる積もりだと預金通帳が魅せられる。大日方傳は新井の話に大いに納得し、絹代に冷たくなり、君には「輝かしい幸福」が待っていると告げて船でとっとと去って行く。
それは違うだろう。まあ小林のような仕方のない人間は大勢いるし、彼が改心するのは結構なことだろうし、金満家に囲われるのが芸能の常ではあるだろう。しかしこうも上から目線で旅芸人を仕方のない連中と決めつけられては、作者は大衆芸能をどう捉えているのか、何のための映画なのだと云いたくなる(当時映画は上等な娯楽ではない)。
さらに、別に兄妹セットで新井の処に帰る必然性はなく、大日方は絹代だけ奪えばいいのだ(学生の身分にしても、交際を続けるのに何を遠慮することがあるのか)。戦前の恋愛は金銭感覚に劣る価値しか認められていないという処を大日方は超えられない、ということであれば漱石以前の認識であり、そうでなければ大日方は絹代を大して好きではなかったということだろう。いずれにしても退屈である。
映画は流暢だが見処は少ない。冒頭の自転車の連鎖が意欲的だがそのタッチはすぐに忘れ去ってしまう。本作の価値は俳優単位であり、破産して少女歌劇に出ていた経験を持つ絹代のリアリティが素晴らしい。本作は20〜30年代の邦画界を席捲した田中絹代を拝むには最適の作品なのだろう。ラストでこけたのは演技ではなかったのは有名は逸話。
小林十九二も印象的。その他飯田蝶子に至るまで当時の名優満載らしい。なおタイトルは略称で流布されているが、正しくは『戀の花咲く 伊豆の踊子』。ベストショットは絹代が風呂場で脱衣した着物を脱衣籠に投げ込むショット。
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