[コメント] フランケンシュタイン(1931/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
メアリ=シェリーの原作の有名な怪奇小説の映画化作品。かつて原作の映画化は既に1910年に一度試みられているが、その当時は完全な色物扱いで、特筆すべき所はなし。まさに時代がこれを求めていたと思えるほど、この作品は大受けした。この作品はそれだけで様々な功罪をもたらした。マイナス面としては、あまりに原作をないがしろにした改編。一方でプラス面としては、怪奇映画を一気にメジャーに持っていったという功績。事実1930年代のユニヴァーサル怪奇映画路線はひとえに本作の成功によるもの。
それで本作が何故ここまで受けたか。と言うことを考えると、原作との乖離が上手く機能した為ではないかと私には思える。
物語と劇場作品のギャップというのはどうしても存在する。字で読む限りは受け手側はイマジネーションを働かせて、頭の中にそのビジュアルイメージを作り上げてしまう。本を読んだ受け手側それぞれに違ったイメージがプリントされる。それが映画になると、否応なしに画面が目に飛び込んできて、耳には声や音が聞こえてくる。映像によってイメージが統一されることになる。
ストーリーの変化もある。小説の場合かなり自由に話の長さを規定できるのに対し、時間的な制約のある映画だと、長編小説のプロットを取捨選択しなければならず、そのつなぎの部分を監督独自の解釈によって補うわけだが、時として原作の一部だけを借用し、残りの大部分をオリジナルで作ってしまうこともある。本作はその見本みたいなものだ。
たまたま映画の方を先に観てしまい、その後原作を読んで、そのギャップに驚いたものだ。それだけこの映画の印象が強烈で、とりわけボリス=カーロフ演じるモンスター(フランケンシュタインとはモンスターを作った人物で、怪物自体はモンスターという名称でしかない)の印象が強かった。それまでにも様々なメディアで登場する彼を模したキャラがたくさんあったし(『怪物くん』にもフランケンなんてのがいたな)、どうしてもフランケンシュタインと言うと、モンスターの方を思い出してしまう。
それだけ様々なメディアに定着させるほど強烈、且つ素晴らしいキャラクターを映画では創造出来ていた。キャラクター性は充分及第点。
ところで原作と本作のモンスターの大きな違いを挙げてみると、原作ではかなり高い知性を持った存在として描かれていた彼を、いかにもモンスターらしく知性を低めた描写をしていると言うこと(喋ることも出来ない)、罰を伴った教育によって躾られていくこと。などがある。概ね映画に登場するモンスターは野獣と同じように描かれている。
いくら人型をしていても、野獣と同じ扱いだから、おいたをしたら退治されてしまう…
原作であれ本作であれ、モンスターの悲しみを描こうとしていると言う点においては一致しているけど、その描き方のベクトルが全く違っているわけだ。
原作におけるモンスターの悲哀は、自分が世間から認められることはなく、造物主のフランケンシュタインからさえ疎まれた存在であることにおいて強調されていた。誰にも分かってもらうことのないたまらない寂しさ。そしてそれ故に自分を認めてくれるものが欲しいと切望する心。
一方、映画のモンスターの悲哀とは、野獣のそれと変わりがない。彼は人間に飼われることを是とせず、逃げだそうと虎視眈々と狙っている野獣なのだ。彼が逃げ出すのは、フランケンシュタインの助手フリッツの虐待に耐えかねて。
そして逃げ出したら、今度は町の人間からの迫害が始まる。人のエゴによって生み出された生命が、人の都合で消されていく。それを映画では悲哀としている。原作ではモンスターの立場から、そして映画では彼を取り巻く人間たちの立場から、哀しみを描くと言うことだ。
この改変が何故必要だったのか。単に当時はセンセーショナルな映像が求められていたと言うだけなのかも知れないし、それが故に原作を戯画化したような本作が認められたのかも知れない。しかしながら、故にこそ、この作品がホラー作品としての佳作足り得た。
実際、この作品のお陰で数々のフランケンシュタインものの映画が作られることになるのだし、後年コッポラ監督の肝いりで作られた新生『フランケンシュタイン』(1994)が全然面白くないと言う結果に終わったのは事実だ。
この作品にはかなり多くの見せ場がある。有名な落雷による怪物蘇生シーンや、ラストの風車小屋の焼け落ちるシーン、助手フリッツと怪物の対峙シーンなんかも結構好きだ。その中でも白眉は沼でのモンスターと少女の交流のシーンで、モンスターの誕生シーン共々数々の映画でパクリが作られるほどのインパクトを持っていた(この作品を観る大分前に押井守監督による『うる星やつら2』(1984)でもあった。あのシーンでは明るい湖のシーンとなっていたが、これは押井監督が「記憶だけで描いたから」とのこと。他にも『ミツバチのささやき』(1973)でもオマージュが献げられている)。あのシーンの挿入のお陰で、モンスターは本当に何も知らず、そして人間並みの罪悪感も持っていると言う事実を見せつけてくれた。これぞ映画の力だな。
モンスターは悲しい存在。ただ怖いだけじゃ駄目なんだよ。
ところで本作によって発掘された感のあるカーロフだが(印象づけるためか、オープニングのキャスト紹介ではモンスター役は“?”となっている凝りよう)、元々は怪物役には『魔人ドラキュラ』のドラキュラ役がヒットしたベラ=ルゴシになるはずだった。だがルゴシが特殊メイクを嫌がったため急遽配役が回ってきたそうだ。もしルゴシがこれを受けていれば多分ここまでのヒットにはならなかっただろうが、『エド・ウッド』(1994)であんなにカーロフに敵愾心を燃やすこともなかっただろう(笑)
既に長々と書いているけど、コメントは『フランケンシュタインの花嫁』に続く…
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