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[コメント] ひとりで生きる(1992/仏=露)

霧にむせぶ撮影の美しさが際立っている。男の尻をあれだけ撮って美しいとは、これは凄いことではないだろうか。物語の文法も画期的、これほど面白い続編があっただろうか。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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動くな』で提示された脱出という主題は改めて説明されることはなく、これに係る断片を積み上げ続ける。ワレルカの行く処で繰り広げられる光景がやりたい放題に脱線を繰り返す訳だが、これが決してモダニズム臭くならず、水溜りに落ちた酔っ払いも子供を抱く裸婦も鼠を焼く男も、停滞と脱出の主題を補完し続けている(橋梁を行く老人は『動くな』のクライマックスのしがない反復だ)。ワレルカの物語も中心に位置することはなく、同様の断片として存在している。

古典的な物語は、どこかに完璧な形が理念として存在していて、できあがった作品はそれにどこまで到達できたか、いわば減点をどれほど食い止められたかによって評価されるところかある。一方、本作の脱出の物語は、これに純粋に成功した者などいないのだから、理念などどこにもなく、ただ断片の強度が問われるのであり、その強度が重層化される度に加点が繰り返される。この方法は画期的だろう。当然ゴダールという先達が想起されるが、本作はゴダールのような高踏派ではなく、ただ『動くな』で提示された主題を豊穣にするために、大衆文学的な開き直りによって果てしなくお下劣かつヤケッパチに展開し、結果、まるでロマンポルノのように、生殖という別の主題を浮かび上がらせている。

実際、断片のインサートは本邦の清順・寺山・神代らが想起され、俗謡の多用と併せてカネフスキーは影響を受けているに違いないのだが、後発組として自分のものにしている。彼の断片は全体から浮き上がる印象がないのだ。おそらく主題への寄り添い方がタイトだからだと思う。例えばジャズにおいては、かつてはフリージャズはいちジャンルであり、オーセンティックなジャズと対立するものだったが、今はオーセンティックなジャズでもフリーの手法がしばしばインプロビゼーションに用いられる。カネフスキーの断片はこれに似ており、過去の技法を巧みに消化していると思う。

そのようにして、脱出の主題と生殖の主題が交錯する。混沌とした脱出と生殖の混淆が本作の言葉にできない感想として残る。ラストでワレルカが示すシンボルは、正にそのようなものだった。

モノクロの『動くな』とカラーの本作と、いずれも素晴らしい撮影。これも凄いことじゃないのだろうか。動的なのに美しいとしかいいようのないキャメラに惚れ惚れとする。

どこにでも現れるワーリヤの造形は、西洋人にとって聖母マリアとはこのようなものだろうと思わせられる(ガリーヤの妹というのは方便で、どちらも半分天使なのだろう)。シベリア収容所を取り上げたのも貴重。ヤマモトの四角い顔は渥美清にとてもよく似ている。

(評価:★5)

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