[コメント] 桜の森の満開の下(1975/日)
桜のメタファーとしての岩下が富三郎を狂わせる様を描きたかったのだとすれば、富三郎を最初から冷血漢の殺人鬼として描くのは少し物足りない。惚れた弱みで尻に敷かれる富三郎って篠田監督そのもの?
**ネタバレ注意**
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桜のメタファーとしての岩下が富三郎を狂わせる様を描きたかったのだとすれば、 富三郎を最初から冷血漢の殺人鬼として描くのは少し物足りない。 ここは例えば、強盗はするが殺人だけは絶対にしない盗賊が岩下と出会ったことによって狂ったように首を狩りまくるといった変化をつければ「桜が人を狂わせる」というテーマに説得力が増すように思うのだ。
だから最後の凄い形相のばあさん(あれ誰?)を背負っているのに気がついた富三郎が取り乱すシーンは、野村版『八つ墓村』の桜吹雪のシーンにも通じる狂気的な美しさに満ちていたが、それだけという気がしないでもないのだ。篠田監督はあのスローモーションを撮りたかっただけちゃうかと。 でもこの映画が「八つ墓村」より前に撮られた作品だと知って見直した。
伊佐山ひろ子は初めて見たけど何を考えているのかわからない不気味さがあってよかった。どうでもいいネタだけどタモリの従妹なんだね。
ところで岩下志麻ってプライベートでもこの映画みたいに一切家事をしないでお手伝いさんに任せきりらしい。女優業に専念させるための篠田監督の意向らしいが、それは建前であって、実はこの映画の富三郎みたいに尻に敷かれ好き勝手、翻弄されてたりして。それが事実ならこの映画は篠田監督の奥さんへの思い入れが最も反映された作品かもしれない。
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