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[コメント] 家族の肖像(1974/仏=伊)

悪意を皮肉な目で見た社会に転換してしまうのもヴィスコンティらしさと言えるかも。
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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 ヴィスコンティ監督晩年の作品で、『ルードヴィヒ 神々の黄昏』(1972)撮影中に心臓病に倒れた監督が老いと死を意識し、自らの精神的な自画像を描いたとされるが、同時に古い価値観と新しい価値観のぶつかり合いを通し、古き良きヨーロッパ文化への哀惜と反省、そして行く末をも暗示した作品とも言われている。

 ヴィスコンティ作品の美しさは認めるものの、私はどうしてもこの耽美的描写が苦手で、本作も苦手な作品の筆頭ではある。しかし、やっぱり年齢を重ねてみると、徐々に評価していく傾向にある事に気づく。この作品を評価するには一定の年齢が必要なのかも知れない(勿論他のヴィスコンティ作品を観ていることも重要だろうけど)。

 本作もその耽美性ばかりが鼻についていたのだが、いざ改めて本作を考えてみると、耽美性よりはむしろ“孤独”さが見えてくる。「家族の肖像」という絵画を買い続けるのが趣味の教授だが、本当に彼がほしかったのは、絵ではなく、本物の家族だったはず。たとえそれが暴力的な手段であっても、曲がりなりにもそれが与えられてしまった時の戸惑いこそが本作の主眼になっているとも考えられるだろう。

 ただし、家族とは単に同居するものではない。お互いに近寄ることによって作られていくものだ。プライドが邪魔してそれが出来ない教授と、最初から彼を利用しようとだけ考えている一家とでは当然家族にはなり得ないのだが、芸術がそれを媒介する。特にバーガー演じる青年コンラッドの精神が教授と同じものを持っていることを知ることから、彼らは家族となり得る存在に変わっていった。たった一瞬ではあったが、彼らは本当に家族になったのだ。

 …この時点で終わっていれば、心地良い作品で終わることが出来るのだが、流石というかヴィスコンティはそこで終わらせたりはしない。心の交流があったという事実を下敷きに、今度はそれが裏切りという形でバラバラにされるまでも描く。この辺が監督の悪意というか、ヴィスコンティのヴィスコンティらしさというか…

 本作の場合、老教授が古いヨーロッパ文明を表しており、青年コンラッドは若い時代のインテリの姿を描いているとも言われる。この二人の姿は古い貴族的価値観を持ちながらアナーキストとして生きてきたヴィスコンティという人物の両面を示していたのかも知れない。この引き裂かれるかのような生涯の中、そのどちらも権力によって挫折させられた彼の生涯そのものを垣間見ることも出来よう。この二人が意思を通じさせることは出来たのは、ヴィスコンティなりのけじめの付け方だったのかも知れない。

(評価:★4)

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