[コメント] 赤西蠣太(1936/日)
シンメトリというカメラ構図は不思議なもので、使いようによっては、観客に安心感を与えたり、逆に不安感を煽ったりと、真逆の効果を持ってしまいます。凡庸に見えて、実は繊細なカメラ技法のように思うのです。
例えば、ヒッチコックの佳作『汚名』のラストシーンを思い起こしてください。シンメトリの構図の中、クレーンアップによって、独軍関係者たちの不気味な姿が浮かび上がります。クロード・レインズの悲惨な「その後」がシンメトリの構図自体に明瞭な形で映っているのです。これは、シンメトリが観客に不安感を与える典型例だと言えます。
しかし、シンメトリの構図は、逆の効果、観客に安心感・安定感を与える意図で用いられるケースの方が多い。『赤西蠣太』は、まさにその一例です。主人公の赤西蠣太は、他藩のスパイだが、少し間が抜けていて、色々とピンチを招くが、最後はなんとか逃げ通す、という展開の話。そうした赤西蠣太の「柔らかい」キャラが、シンメトリの構図自体によって表現されています。
この点については、映画研究家の今泉容子[2004]が的確な分析を行っています。例えば、赤西蠣太が侍女に向けた恋文を書くシーン。ここでは、机に座る赤西蠣太を中心線として、ハイアングルで部屋全体が撮影されていますが、赤西蠣太のみならず、彼の周りの襖や壁も、整然と配置された形になっています。
また、その次にアイアングルショットに切り替わります。そこでは「失敗した恋文の大量の紙クズ」が床一面に投げ捨てられているのだが、その無造作に散らばった紙クズさえも、シンメトリ的な整然とした配置で置かれているわけです。一方で、赤西蠣太以外のキャラが出てくると、カメラ構図は非シンメトリに変わるわけだから、ますます効果は絶大です。
こうした計算尽くされたカメラ撮影を今泉容子は積極的に評価していますが、ぼくも同感です。フィルムに出てくる被写体のキャラを言葉ではなくカメラの構図によって示す。これこそ映画表現の初歩的なマナーではないでしょうか。それは「計算高い」と同時に「誠実な」映画の在り方です。
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