[コメント] 穴(1957/日)
もう何度も市川映画で書いて来ていて、我ながらマンネリを感じているのだが、しかし何度でも云い続けるしかない(大事なことは、面倒でも繰り返し云う必要があると思っている)。この下品な(寄り過ぎの)アップの多用と、これ見よがしな(不自然な、映画の透明性とは対極にある)パンフォーカスの頻出は、許容できないレベルだと感じるのだ。
例えば、画面手前に大きく死体の靴底を映し、画面奥に京マチ子を配して手前から奥まで全てピントを合わせている、といったショットは奇抜で良いと思うのだが、矢張り、手前に人物の寄り過ぎのアップ、奥にも複数人物、といった構図におけるパンフォーカスについては、現実離れし過ぎていて、醜い画面だと私には感じられる。この手の画面が本作ではこれでもかというほど出て来る。こういうのをピンポイントで使うのならいい。多用、頻出が宜しくないと云っている。
あと、本作の特徴的なカメラワークとして、人物に寄ったと思ったらすぐに引く(前進移動と後退移動をワンカット内で行う)ショットの頻出もある。これをある種ギャグのように使って、コメディとしての軽快感を出そうとしているのだが、まったくクダラナイ演出だと私は思う。
さらに本作の場合は、主演女優−京マチ子を全く美しく撮ろうという意志のない演出だ。多分、スクリプト段階では、もっと可愛い女性として想定されていたのだと思われるのだ(男性たちの科白、あるいは、ハンサムな船越英二や石井竜一とのプロットからも)。それを撮影現場のノリみたいなことで、コメディとしては、不細工に作った方が面白いという心得違いが発生したのではないか知らん(完全な憶測です)。このようなイジワル市川のイケズにも関わらず、それでも本作の京マチ子はコメディエンヌとして魅力的、という意味で、彼女を礼讃すべきと私は思います。
ちょっと普通に面白いと思ったところも書いておこう。照明撮影で良いと感じた2つの場面。1つは、京マチ子に似ている替え玉の女性−日高澄子に銀行員の3人−支店長の山村聡、副支店長−船越、出納係の春本富士夫が迫っていくシーンでいきなり転調したようにローキーになる演出。もう1つが、丘のような高台の原っぱで船越と京が密会をする場面が2回あるが、その内の夜のシーン。こゝも2人への寄り過ぎの顔アップ連打なのだが、暗い中、目の周辺だけ照明があたっているショットで統一されているのだ。これは光源不明なショットではあるけれども、このシーンとしては良い効果を上げていると思った(なのに、続くシーンが留置場にいる京のオーバーアクトを強いられた場面、というようなところでも、本作の悪い部分が目立ってしまっているのだが)。
尚、本作のお話(あらすじ)が面白いという感想や、スピーディなプロット運びが良いという意見に反論するつもりはないし、凡百の没個性作品に較べれば、優れていると云ってもいいと思いますが、そうだとしても、私には許容できないぐらい醜悪な演出が目立っていると感じられるということです。
#備忘でその他の配役などを記述。
・主要人物は上で書いた人の他に、警部役の菅原謙二、ライター紹介屋みたいな北林谷栄、雑誌社オーナーの潮万太郎、春本の妹−川上康子がいる。これら主要人物の多くが集合するエピローグも冗長に思う。
・石原慎太郎が駈け出しの作家役で2シーン。最初に絡む編集長は見明凡太朗。
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