[コメント] メリー・ポピンズ(1964/米)
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この「メアリー・ポピンズ」の原作シリーズもやはり私が子供の頃に繰り返し読んだ作品の一つ(私のレビューに読んだという児童文学がやたら多いのは、私の母が岩波や福音館の童話を山ほど買い与えてくれたからで、この二つの出版社から出ている童話のかなりの数は小学校時代に読んでいる。今更ながら母親には感謝である…その代わり、おもちゃ類はほとんど買って貰った記憶がないのがなんだが(笑))。「ドリトル先生」や「ナルニア」シリーズと並び、大好きな作品であると共に、子供心にイギリスへのあこがれを強く持たせてくれた作品でもあった。
特に本作の原作に当たる「風に乗ってきたメアリー・ポピンズ」の方は、無邪気さの強さ、それに対して大人的立場のもろさと言うものを実によく示しており、いつまでも無邪気さを忘れないようにと心に戒めていたものだ(だからこんな大人になったんだろうか?と、今更思ったりもする)。童話なのに妙に深い人間性を掘り下げるこの作品は私の中では間違いなく名作だ。
ただ一方、楽しさを追求した本作の思い出も深い。これがディズニーの力とも言えるが、原作を換骨奪胎してしまい、人間性の深さなど、描写が難しい部分は最初から作る気が無いのが明らか。しかし、原作からどれほど離れていても、この楽しさは尋常なものではない。本作を初めて観たのはテレビの吹き替え版だったはずだけど、ほぼ完全に没入していたはず(で、ひねたガキの私は「原作とは違う」と親の前では憤慨して見せたものだが…今もあんまり変わってないか)。
いずれにせよ本作は私の子供の頃から抜くことが出来ない思い出を作ってくれた作品であると言うことは事実。
本作と原作の大きな違い。それはメリー=ポピンズという女性の描き方にある。原作のメアリーはほとんど妖精そのもので、あれだけの事件を引き起こしながら、自己を主張することがほとんど無い。子供たちが目にした夢のようなことも、その直後ぶすっとした表情で即座に否定してしまう。それだから最後まで彼女の正体(と言うのがあればだが)は明らかにされないままに終わる。それがメアリーを際だたせていた。
それに対し映画版では全くベクトルは逆。いかにしてジュリー演じるメリーを魅力的に見せようか。と言う点に特化している。結果として他の人物のキャラクタ性は後退し、彼女(と原作とは異なり、完全にパートナーとなってるヴァン・ダイク)を一人浮き彫りにさせていた。子供心に反抗して見せたのはこの点だったけど、今になってみると、これはこれで正しい作り方だったんだとよく分かる。何故ならこの映画は“童話”ではなく、ジュリー=アンドリュースという女優を際だたせるために作られたのだから。そのため、本作の対象は決して子供にとどまらず、全ての世代の人達に対して向けられている。1965年興行収益トップというのは、そう言う事情もあってのことだろう。 そしてそれに見事に答えたのがジュリー=アンドリュースその人だった。ここでのジュリーは間違いなく輝いており、翌年製作された『サウンド・オブ・ミュージック』(1965)共々、彼女の代表作となっている。そして見事デビュー作の本作で彼女はオスカーを得ることになるが(珍しいイギリス人スターでもある)、これは本来彼女が演じるはずだった『マイ・フェア・レディ』の同情票が集まったという陰口も叩かれてしまった(舞台版『マイ・フェア・レディ』は彼女が主演で、当初映画版も彼女が主役となるはずだったのだが、プロデューサーの意向でヘップバーンにキャスティングされたという曰く付き)。私としてはどちらの映画も大好きではあるので、どちらか?と言うと選べなくなってしまうけど、強いて言うならこの年にはヘップバーンを、そして翌年の1965年のオスカーを彼女にしてほしかった(ちなみに1965年オスカーは『ダーリング』(1965)のジュリー=クリスティ)。
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