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[コメント] 大人は判ってくれない(1959/仏)

瑞々しさに溢れた処女作の中の処女作。
akerue

始めえて見た時、移動撮で映されたパリに甘美なテーマソングが流れてくるオープニングに興奮し、これから見るこの映画への期待が否が応にも高まったことを覚えている。

前半、軽快な音楽に乗せ悪友とパリの街路をスイスイと闊歩するシーン、体育教師のジョギング隊列から次々と生徒が脱走していくシーン、ドワネルが回転ドラムの遠心力で壁に張り付きながら無邪気に笑うシーン(『逃げ去る恋』での使い方には思わず感涙してしまった・・・)等、瑞々しく幸福なシーンに思わず口元が緩むが、その後、家出して空腹のため牛乳を盗んで飲んだり、鑑別所への護送中パリの夜景を見て涙を流すドワネルを捉えたショットの悲壮な美しさに思わず息を呑む。

そして語り草になっている最後の海のシーン。私は何度見ても、遠景気味から次第に寄り添う様にドワネルを捉えるカメラワークや浜辺に残る足跡の素晴らしさに圧倒され呆けてしまうのだが、何度目かの劇場鑑賞の際、隣の方に「ラストシーンをどのように解釈しましたか?前向きな決意か、後向きな諦念か」みたいなことを問われ、「あまりそういうことは考えませんでした」と答えて微妙な空気になったのを覚えている。

意味解釈も映画の楽しみ方の一つだけど、自分はこの映画をあまりそういう風には見れない。ジャン・コクトーは「この映画は傑作だ。奇跡の様なものだ」と言い、ジャン・ピエール・レオーは、トリュフォー没後30周年来日の際、「この映画は私にとって、トリュフォーと出会うことが出来た神の摂理の様な映画だ」と言った後、この作品についてはこれ以上言うことが無いと言って1〜2分で質疑応答に移った(笑)が、ともに良くこの映画を言い表していると思う。同じくヌーヴェルヴァーグを象徴する処女作であるジャン・リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』とは、類似点もあるもののやはり対照的で、その後の確執を考えると意義深い。

(評価:★5)

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