[コメント] 溝の中の月(1982/仏)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
鼻の曲がったブルーカラー男、
ついに剃刀手放せず。
彼女は呟く様に、
「寒いわ」。
「泣ける」とは言っても、ホントに目から涙するわけではない。だがでは、それは「切ない」ことかと言うと、これも違う。果たされ得ぬ欲望を切実に抱くことを「切ない」と言うのだと思うが、映画の中の女を生身の女と取り違えて本当に愛してしまうわけではない。では、それは何なのか。それは敢えて言ってみれば、言葉に出来ない背反がほとんど物理的とも言えるような感触で自身の中にグッと込みあげてくる、そんなカンジだ。そんなカンジが、つまり「泣ける」。何処までも受動的で、可能的な主体を信じない感受性。具体的に生きようとしない感受性。だが生きていこうとする(その為に発動されてしまう)感受性というものにどうしても薄幕一枚で欺瞞を感じてしまう者もいる。逆に具体的に生きようとしない感受性というものに欺瞞を感じる者もいるだろう。それらはひとつの魂の内で相互に現われては消えていく感受性の両極なのではあるまいか。「存在すること」と、「生きる」ことの違い。(…とは言っても、すべてをひっくるめて現実としての時間は否応なく過ぎ去っていくわけで、つまりは否応なく生きてはいるのだけれど。)
ツクリモノでしかない幻想のファム・ファタール(「運命の女」)。どう足掻いても到達できない夢。でも、彼女は嘘偽りなく奇麗なのだ。欺瞞なく、嘘偽りなく奇麗だと思えるその顔がそこにあるということが、泣けるのだ。それは「生きる」ことから疎外されていると感触している人間の、この世に(映画に、物語に)信頼を寄せる為の最後の手段かもしれない。
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