[コメント] 冬の嵐(1987/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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ケイティとイヴリンが格闘するシーン中、一方の絶命を示すカットで、ピアノの鍵盤に指がかかって一音が鳴るのだが、これが後の、イヴリンの姿をしたケイティが、切断された指に巻いた包帯で正体をルイス医師に見破られることの伏線になっている。尤も、イヴリンの姿が見えた時点で、ケイティの扮装だということは見え透いているのであり、むしろ本当にイヴリンが生き残り、わざと包帯を手に巻いている、といった二重の仕掛けを考えるくらいのところからようやく、トリックと呼ぶに値する何かが始まる気がするのだが。
鏡の仕掛け扉の裏にひそんだケイティが、彼女を殺そうとしているルイス医師を鏡越しに見つめるシーンでは、獲物を狙う者としての眼差しを四方に配るルイス医師に被さって、鏡に映った、亡霊のようなケイティの姿が見える。ルイス医師が鏡を破った際にも、彼女の姿は既に鏡の裏になく、屋根裏部屋を探すルイス医師の前には、ケイティの姿どころか気配すら見えない。また、ケイティに刺されたルイス医師が倒れた床の扉が開かれ、恰もルイス医師が甦ったかのように見えてケイティが脅えるシーンなどにも、人物の亡霊性というテーマが貫かれている。殆ど何の役にも立っていないケイティの夫は、この、一瞬ルイス医師の復活劇を演出することと、ジュリーやイヴリンを演じさせられていたケイティに「ケイティ」と呼びかけて、亡霊の劇の終焉を告げるという二重の役を果たすためだけに駆けつけた感がある。
ルイス医師の館に向かう途上のガソリンスタンドで、なぜかサービスとして付いてくる金魚。これは、受け取ったケイティに「可哀想」と言わせることで、ルイス医師らによって間もなく籠の鳥とされてしまう彼女自身の哀れさを予告させているわけだが、カメラや鏡といったものと同一線上にある、「映る像」というテーマを、水の入ったビニール袋やガラス容器で遂行してもいるのだろう。
館でのシーンは実質三人の役者による舞台劇のようでありながら、映画のカット割でしか実現し得ない形で、一人の女優が三人の女性へと増殖する辺りが面白い。遂にケイティがルイス医師にとどめの一撃を食らわすシーンでは、人形を自分の姿に偽装することで、強いられた自己増殖そのものを逆襲の武器とする。
だが、ルイス医師の鼓動に合わせて自動ピアノが鳴る仕掛けは、大して活きていない。車椅子の彼が、自分も含めてこの家は機械仕掛けだと語る台詞からは、もっとアイデアが展開することを期待したのだが。
それにしても、『断崖』風に給仕されるミルクだとか、『裏窓』のように、脚を怪我してギプスをしているカメラマンの夫だとか、映画好きの記憶を擽るような画が却って、サスペンス映画というジャンルへの自己言及として、こちらの気持ちを醒まさせる。要らぬ遊びでしかない。
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