[コメント] アメリカン・サイコ(2000/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
ナルシスト達のナルシスト競争を冷笑的に笑い飛ばす本作は、その意味では批評的な映画だ。だけど、その批評性こそ、ナルシスト達の空疎さと同じものでもあることは、劇中の音楽批評の行為の後に続く殺人シーンが象徴的に示している。だから、この映画を見た後にここに訳知り顔で批評的な行為をすることは、実際にはかなりの居心地の悪さがある。
主人公の殺人は、序盤では斧で顔を叩き割る行為だが、終盤にはチェーンソーを振り回し、拳銃でパトカーを爆発させる。部屋に吊るされた死体袋は、実にホラー映画的演出だ。これが狙ったものであるなら(多分そうだろうと思うのだけど)、この映画はある種の映画的リアリズムに忠実だ。いわば、映画的リアリズムとは、現実を的確に写し取った写像なのではなく、現実を的確に戯画化した記号である。
その「リアリズム」故に、この映画は一周回ってホラーからコメディに軽やかに転じる。つまり、映画的リアリズムへの批評性を示すために、映画的リアリズムを踏襲し、その空疎さ、現実味のなさを見せる。いわば、批評的に、映画的であろうとする。かくして、戯画化された記号だけが大真面目に演技するものだから、もはやこの映画の存在そのものが、空虚なコメディとして見えてきてしまう。
厄介なのは、既に述べたように、こういうことを書くという行為(批評)もまた、この映画によって戯画化されてしまっているという所にある。そういうことを考えると、いよいよ居心地が悪くなってきてしまう。
◇
ところで、この映画の批評性は、単純な意味での消費社会批評でもあるが、一方で、映画の映画性への批評行為を映画が行うという形で、「批評を批評する」という行為をも批評している。消費社会も、消費社会批評も、そしてまた、その批評を批評するという行為も、基本的には同じ水準で空疎なのだ。
その点で、この映画は二重の批評を行っている。消費社会の批評と、消費社会の批評の批評、だ。ここで、前者のみならば分かり易い映画になるかもしれないが、それこそ「いまさらこのテーマ?」ということになるだろう。「いまさらこのテーマ」を、いまさらやることの意義は、「いまさらこのテーマ?」と冷笑する批評性を冷笑することだ。「いまさらこのテーマ」という感覚は、逆に言えば、ある種の流行を前提にしているからだ。戯画化された記号の流行。名刺のオシャレさを競うことと、実際には大差がない。――そういう批評性。
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