[コメント] 老人と海(1999/日=カナダ=露)
たとえば、飛ぶ鳥が瞬間的に素早く動くショットなんかでは、実写映像なら不可避的に写しこまれてしまうだろう残像現象が、そのまま油絵として描写されていたりする(*)。それだけ見ても、端的に言ってこのアニメーション映画の表現は実写映像のそれに従属してしまっているのが判る。見ているものの視線のリアリティがそれを要求してしまうのだが、そういった描写を見るにつけ、かつて押井守が、「アニメーションは作り手の思い入れだけで成り立っているヘンな映画」というような趣旨のことを述べていたことが頷けてしまう。つまりこの映画は、油絵アニメーションとは言えど、油絵という具象の可塑性を存分に発揮出来そうな技法を生かし切れていないのではないか。その昔個人的に『破滅への歩み』という、やはり油絵で描出されたアニメーションを見たことがあるが、そこでは油絵という技法を存分に生かして、絶えず形象が形象を呑み込みながら新たに生み出していくというような、その技法独自のスペクタクルとダイナミズムを展開して見せていた。それは勿論、端的な物語というものを放棄したところで成立している表現なわけで、飽くまで物語をこそ語ろうとしているのだろうこの映画とは目的とするところが異なっているのかも知れないが、アニメーションで物語をしようとする時に、実写映像のリアリティに従属的になるということが、必ずしも必然的なこととも思えないので、アニメーションなりの表現の飛躍に乏しいこのアニメーション映画は、映画とアニメーションの中間点にある、言ってしまえばよくある作品に過ぎないと思われたのだった。勿論、その労力が大変だったのだろうことは認めるけれども。
*)同様の事態は勿論日本のアニメーションでも起きていて、『もののけ姫』の宮崎駿はある場面の絵コンテの中に、「ああ日本アニメ!」というような嘆息を漏らしていたりする。そこではやはりキャラクターの瞬間的なアクションがマンガ的な残像現象的描写を通して表現されており(それしか選択肢がなかったのであろう)、それを宮崎駿は日本アニメ特有の、時間・空間を省略して描写する拙劣な技法として嘆息しているのだろうが、しかしそのような技法はこの映画にも見られる通り、決して日本のアニメーションだけの現象ではないのだろう。
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