[コメント] 天空の城ラピュタ(1986/日)
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ムスカ氏の位置付けは、確かに不確かだった。ラピュタ探索隊の指揮官は”大佐”氏。ムスカ氏は企画立案者か何かだろうか。本人は後にラピュタ人(びと)の末裔だと言っているが、そのわりには飛行石も持っておらず、おまじないも継承されてなかったりと、正直、これは疑わしい。だが政府側から派遣された要員であることは間違いないようで、このムスカ氏が言うには、空からロボットが落ちてきたことによって、(それまで空想の産物と思われていた)ラピュタの存在が確認された。要は、落下してきたロボットという物的証拠がなければ、政府のプロジェクトとしてラピュタ探索が採用されることはなかった、ということだ。だとすると、もしラピュタ捜索隊が指揮されることがなければ、シータは発見されることなく北の国・ゴンドワ(だったっけ?)でひっそりとした生活を続けていたはずで、暖炉の岩の窪みから飛行石を取り出す必要もなかったし、窮地に追い込まれ、お婆さんから教わったおまじないを唱える必要も生じなかった。ということは、ラピュタが姿を現すこともなかった訳であるから、今回の冒険譚はそもそも発生しなかった事になる。一生懸命探索したんだけど、ラピュタは見つかりませんでした、じゃ映画にならないからね。で、えーーっとォ・・・ロボットはなんで落っこちてきたんだっけ?
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私が言いたいのは、ムスカ氏を王族の末裔とする設定は必要なかったんじゃないか、ということである。政府からプロジェクトの管理者として任命され、関わるうち、ラピュタの魅力に取り憑かれ、巨大な野心を抱いた男、で十分じゃないか。だってメモ帳見ながら操作する程度の知識しかない奴なんだもの。常識的に見れば、これは官僚のペーパー主義を揶揄する描写で、王族という血統の概念を表す描写ではない。王族の末裔がラピュタを熱心に探しているところに、空からロボットが落ちてきた、となるとご都合主義を感じるが、官僚が関わるうちに野望を肥大化させる、というのであれば、ロボット落下は話の出発点であるから、さほど違和感を感じないで済む。
ついでに言うと、この物語を制作した総責任を宮崎駿という一個の人格に負わせることが可能である、という前提に立って物を言うなら、これはまさに彼のロリコン趣味の発露だと思う。シータも王族、ムスカも王族、とすることで、性行為の介在をより露骨に暗示しているわけ。なぜなら、王族の仕事とは、王位継承者を産み育てることに外ならず、それは誰でも知っていることだから。宮崎本人はさり気なく投入したと思っているかもしれないが、彼自身が隠しおおせたと思っている以外の部分で如実に露顕してしまっているようで、どうもバレバレみたいです。
さらについでに言うと(ぜんぶついでなんだけど)、ロリコン趣味を持つこと自体は犯罪ではないから、それを表明するのも自由で構わないと思うが、この毒気にあてられて犯罪行為に踏み出す奴がいたとしたら、そこに宮崎アニメの責任がまったくないとうことはあり得ないと思う。とりあえずそれを糾弾するのは私の仕事ではない、としておくけれど。
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純粋に視覚体験としてつまんない。話は一応冒険譚だけど、アニメーションとしてはちっとも冒険してないから。ただ音響効果は凄い良かったし、久石譲の音楽も素晴らしかった。全体としては、いつもうな垂れて地面ばかり見ている世の大人に、たまには空でも見上げてごらん、と言ってる効果はあると思う。
75/100(04/04/30再見――15年振りくらい)
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