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[コメント] リリイ・シュシュのすべて(2001/日)

その曖昧さゆえに己が想いを投影し得るキーワード「エーテル」の海に漂う中二病的群像。「宇宙」とさえ等置される、妄想的信仰の空虚な中心としてのリリイ。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







中二病的といっても、例えば『エヴァ』は、大人の大人なりの悩みや屈折が絡んでくる重層的構造の内に子供たちを組み込んでいたが(その構図は『ガンダム』からの継承だろう})、本作は純粋さと凶暴さがモロに発露した子供たちの自閉的世界に終始するのが退屈。そうした「幼さ」に特に思い入れの無い僕にとっては、だが。

沖縄で星野(忍成修吾)が溺れかけるシーンでの、ハンディカムが乱れる水面を捉えたカオス状態の画面。この画面の混乱は、久野(伊藤歩)がレイプされるシーンでも起こっている。沖縄シークェンスは一貫してハンディカムという、少年らの主観によって捉えられたショットによることで、記憶としての煌めきを画面に刻み込んでいる。それ故に、久野に起こる悲劇をハンディカムで捉えることで、記憶が汚されることの悲劇をも同時に描いたのだろう。

沖縄シークェンスに於ける、自由な旅人、自由な大人として度々少年らの前に現れる大沢たかおの唐突な死や、「光」に反応して海から飛んできた魚に殺されかけた星野が、市川実和子とアラグスクの話をしていた直後に溺れ死にかけるなど、後の変貌の伏線となる不吉さの配置は巧み。

久野は、星野にリリイを教えた存在であり、蓮見(市原隼人)はその星野からリリイを教えられ、彼もまた津田(蒼井優)にリリイを教える。故に、この物語に於いて久野は、起源的存在。更に久野は、リリイ以前に「エーテル」を音楽化したとされているドビュッシーをピアノで弾く。その音色で全篇を包み込む久野が、ピアノの弾き手として神崎らの女子から拒絶されるのは、音楽が象徴する繊弱さなり神聖さなりが、学校という閉鎖的な環境の中で拒絶されているということでもあるだろう。

星野は、駅で仲間とふざけていた時にぶつかった久野のことで、皆からからかわれるのだが、その直後、かつて自分を苛めていた連中と偶然再会してしまう。苛められていた自分、リリイに依存している自分。弱い存在としての星野が、皆の前で露わにされかける瞬間。故に、沖縄シークェンス後に豹変して強者の地位を得た星野は、弱い自分の記憶と結びついている久野を破壊しようとする。犯行現場が、星野の親が経営していた廃工場なのも、彼の荒廃した精神を象徴しているわけだ。

だが津田に「強い人」と呼ばれる久野は、津田が援交で汚れた体を川に飛び込むことで清めようとしたように髪を剃り、暴力に傷つけられても破壊されない自分を皆の前に示す。久野が今もリリイを聴いているのかは、最後まで明かされないままだ。だから、リリイの音楽の有効性や意味といったものは、観客の側に全て投げ渡されている。

弱い存在である「青猫」の目印としての青林檎が蓮見に託されるのは、「青猫」=星野が自らの「弱さ」を、そ知らぬ顔で蓮見に押しつけるということでもある。星野を刺した蓮見が、青林檎にナイフを突き立てているのは、単に星野を刺したのではなく、「青猫」をも刺した、ということだ。

ラストでは蓮見が若い女性教師(吉岡麻由子)に、何やら他人事的な無関心な優しさで諭された後、隣室でピアノを弾き続ける久野にもう帰るように告げてと言われ、久野の傍に立ったままでいる。そして、真っ暗になった画面に被さって響き続けていたピアノが旋律を終えたところで物語は取り敢えず閉じる。このシーンの前、蓮見はピアノを独り弾きながらもなかなか巧く弾けずにいて、次のカットでは、首を括ってぶら下がっているかに見える。以前のようなリリイへの信仰は失われたのだろうが、音楽に象徴される、何か「エーテル」のようなものが、死と背中を接する蓮見を辛うじて支えているようでもある。絶望と交じり合った淡い光、とでもいった感触の余韻。

リリイ信者の間で使用されるキーワードとしての「エーテル」は、「宇宙に万遍なく浸透しているもの」、「かつては光を伝播させる媒体だと考えられていた」と、曖昧であるが故の宇宙的広がりを有した言葉となっている。リリイ自身、リリフィリアのBBSでも冒頭から「天才。というより宇宙」と大仰に讃えられている。曖昧である分、それぞれのファンが自由に解釈し、想いを込められる言葉でもある「エーテル」。だからこそ、「お前がいるとエーテルが汚れる」などとファンの間で諍いが起きもする。そうした、優しさや癒しのようなものと、対立や憎悪や独善といった負の感情を共に内包してしまう「エーテル」。「ポア」や「ジハード」といった言葉を連想させるこの種の宗教的ワードの危うさを物語としてもっと活かす方法もあった筈だが、岩井俊二はそうした社会的視点にはまるで興味を示さず、飽く迄も少年たちの自閉的かつ自己完結的内面世界のみを注視する。「エーテル」を「文化」、リリイを「天皇」に置き換えたら三島由紀夫の『文化防衛論』にもなりかねない構造を有しているのだけど。

最後まで実物のリリイを目にすることの出来なかった蓮見は、田んぼの中の星野がそうしていたように何度も叫び声を上げた後、「リリイがいるぞ!」と叫んで混乱を引き起こす。実体としてのリリイとの接触を星野に妨害されたことで、飽く迄も彼自身のイメージ内の存在としてのリリイ、実体抜きのリリイを、嘘によって会場の外に引きずり出し、星野=「青猫」とともに葬り去る。

こうした物語の構図はよく分かったが、不良女子たちの内面なき悪役ぶりや、津田が久野について言う「強い人」のあっけらかんとした口調、全ての負を丸刈りという自傷行為で引き受ける久野、カイトを揚げる人たちに、甘えるように近づいていったすぐ後で墜落死する津田など、少女らは、その奥に何も無い悪としてか、穢れを引き受ける聖なる存在として都合よく処理されがちなのではないか。リリイもまた、物語の全ての穢れを最終的に引き受けるかのように、事件後、「週刊誌にレイプ」される存在と化す。このロリコン的かつマザコン的な甘えの構造をそのまんま発露することへの羞恥のようなものが、大人の男としてあまりに欠如している感がある。そのことは、久野が何か生身のリリイの代役のように、意図的に個性を欠いたマドンナ的(男子に好かれ、女子に嫌われる)存在として扱われている点に顕著。実在しないリリイとしてデビューさせられたSalyuも岩井の妄想の依り代にされて気の毒。

第一、性と暴力の極端な発露で少年少女と世界の摩擦を描こうという、日常性を一足跳びで追い越してしまうアプローチが安易。まず日常の何気ない閉塞感なり何なりを経た上で極端な事件を起こすのなら効果もあっただろうが、最初から虚構的な作劇を行なっているのが見えすぎる。また携帯電話は、苛められる側の「逃げ場の無さ」としてもっと効果的に演出されていてもよかっただろう。携帯ツールとして、「逃げ場」としてのCDプレーヤーとも対応する小道具でもある筈なのだから。

純な光に充たされたショットと、残酷な光景。光の美しさがそのまま痛みに転じる世界観は見事と言えないことはないが、何か痛みや残酷さもナルシスティックに美として回収してしまうようなネオテニー状態に嫌気がさす。こんな作品を遺作にしたいなどと述べていたらしい岩井の発言は、精神年齢が少年期で停止していることを白状しているとしか思えないのだが。

肝心のリリイの楽曲も、UAとビョークを足して二で割ったような半端さで、信者が騒ぐような唯一無二のオリジナリティに欠けるし、「リリイは誰かの影響なんか受けない。ただ音楽を懐妊する」だかといったファンの妄言も説得力が無さすぎる。わざとそれを狙ったのでもないだろう。話の核が核として機能していない。ご大層に神聖視されている「エーテル」を具現した音楽家としてわがエリック・サティの名が挙がった時には一瞬キレそうになった。SalyuがSalyuとして活動している現在の歌はかなり好きなのだけど。

健康的でありながらもどこかマニアックな色気を漂わせる沖縄お姉さん(市川実和子)といい、稲森いずみ似の稲森いずみによる妙に淫靡な台詞といい、僕からしたら岩井に最も期待できるのは、「あからさまにエロでないが故のエロ」の演出力だ。この辺は、女性への一方的な眼差しが功を奏した面だと言えるかも。

(評価:★2)

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