[コメント] 脱獄(1962/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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この男は「時代遅れのカウボーイ」なのだろう事はよく分かる。一瞬、西部劇かと思わせるオープニングにジェット飛行機やらトラックの車列を登場させて、「時代遅れ」の男と対比させる。
ありがちな手法だが、期待も持たせる。
後はこの「時代遅れのカウボーイ」が如何に「時代」と闘うかである。「時代」に打ち勝つようならば、正統派のアクション映画の一編としてその多くの群れの中に沈み行く。そしてリアルを求め、既存のヒーロー像が潰されていく様を描こうとチャレンジすればこれは後のニューシネマへと昇華していく。
これは後者を選んだ。
しかし、男が闘ったのは「時代」とかいう大袈裟なものではなく、単なる警官たちとの追跡・逃亡という構図だけだった。
友人に見放された男は、マッチポンプのように勝手に自らを窮地に追い込んだと思うと、ただ安全の為に逃げるだけであって、そこには「自由への逃避」だとかいう大言壮語は無い。
また追う保安官にしても、「時代遅れのカウボーイ」に対して多少のリスペクトやらがあるようなのだが、そこは上手く描き込まれてはいない。我々観客は現代に生きる保安官の立場にいる訳なのだから、そこをしっかり表現しなければこの映画は成立しないんじゃないだろうか?
さらに困惑するのは、序盤から度々登場するトラックの運転手である。簡易トイレを運搬するという、とても現代的でかつどうでもいいような設定のこの運転手は、カウボーイの対極として用意された役割だろう事は一目瞭然である。しかし、この運転手はカウボーイとはラストに至るまで一度も絡む事なく度々登場する。
ラストで何らかの形で絡んでくるだろうとは予測されてはいたが、まったく一度も絡ませずにラストまで引っ張ってくるとは、ある意味衝撃でもあった。
既存の映画ヒーローの象徴でもあるようなカウボーイと、映画の脇役にもなれそうもないトイレを運ぶただの運転手。既存のヒーロー像を叩きのめすには、こういう平凡な男が必要なのは分かる。分かるけれど、それならそれで、なんでこの平凡な男をもっと描き込まないんだろう。このつまらない平凡さを描かないから対比の妙が出てこないんだ。妙に度々登場するにも関わらず、何も描かない不自然さは苛立たせる。
対比するべき運転手や保安官の「平凡」さや「時代に流された」つまらなさを描いてくれないと、カウボーイの行動が単にマッチポンプの馬鹿な奴としてしか思えなくなるのです。
かすかに匂う破滅型ニューシネマの息吹を感じる作品だけに、その点が残念でたまらないのです。
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